文学同人誌『手の家』について

今回は文学系の話です。

僕は「文学」という表現ジャンルは現代美術と同じく、1970年代に終焉していると思っています。現在出回っている「文学」と呼ばれるメディアは、「文学産業」とか「出版業界」とかで生産されている活字商品であるにすぎません。そしてそういう活字商品を生産する労働者がE-mailなどといったメディアを利用して拾い集められ、長くても2〜3年ぐらいの使用期間で使い捨てされていくという、そういう状況になってきました。労働者予備軍に設定されている大学生だの高校生だのニートだの、軽いノリで小説書いて、「新しい感性」だの何だのといっておだてられて、いい気になりそうと思い始めたとたんにハイさよならされて、宴の後の虚脱感を抱え込んだまま一生を送るという図が、アリアリと目に浮かんできます。今の若い人はホントに気の毒。


「文学」は商品性を超えるところに成立するものだと思います(同じ意味で、現代美術も商品性を超えるところに成立すべきです。しかし今どきそんなことを言うのはダサいと言われるとしたら、それがすなわち「文学」も「現代美術」も終焉したということです)。そういう商品性を超えた「文学」は現代においては、同人誌を場とするところにしか成立しません。あるいは、商品性を超えて同人誌を成立させる、そしてそれを維持していく活動そのものが「現代の文学」に他ならない。この考え方の基に、実は僕はある同人誌に参加しているのです。

その同人誌は主として多摩市に在住するおじさん、おばさんたちを中心にやってるのだけれど、元はといえば井上光晴という、今は故人となってますが、生前は革命志向派の小説家として名を成した人を軸として活動していた文学誌です。井上さんが亡くなり、リーダーを失った状態でもう14年になりますが、年間1冊ぐらいのペースでこれまでずうっと発行してきています。誌名を『手の家』というのですが、同名の小説が井上光晴の作品の中にあります。

同人たちはおじさん、おばさんたちとはいえ社会意識は結構強いのです。考えてみれば、若かりし頃は学生運動が盛んだった世代の人たちなのです。そして今、話題の中心を占めているのは、日・中・朝関係を軸とする東アジアの近代史とか近代日本における在日朝鮮人差別の問題です。そしてこの関連で、最近は在日朝鮮人の青年たちとの交流の機会も増えてきているようです。

『手の家』は昨年の12月に最新号が出ました。僕は一昨年から〈アジアヘイタレルカ〉というテーマで評論文を寄稿しています。3回目の最新号では「『近代の超克』おさらい」というタイトルで、コムズカシイものを書きました。『近代の超克』というのは、戦争へと傾斜していく日本近代の宿命のような事柄を表しています。

また、同人の座談会形式による「読書会の記録」が掲載されていて、金時鐘(キム・シジョン)という在日朝鮮人詩人の評論文をテキストにして、結構面白い話をしています。これは一般の人にも是非読んでもらいたいと思えるものです。一部800円です。興味のある人は笹山までお問い合わせ下さい。


[お知らせ]

    1月27日〜2月2日、高輪のオキュルスbisというギャラリーで、僕が企画した陶芸家3人のグループ展「生まれ来るものへのメッセージ展PART3」を開催しています。近くまでこられた方は、お立ち寄りください。詳細はオキュルスbisのサイトにアクセスしてみてください。

    また、1月29日(日)の午後4時より「工芸のこれからを語る懇談会」というのを上記会場でやってます。誰でも参加できますので、お時間のある人はいらっしゃってください。テーマは特に設定していません。何を語ってもすべては「工芸のこれから」につながっているというのが基本的なスタンスなので、お気軽にどうぞ。なお1000円の会費をいただきます(コーヒー付き)。