装飾の起源

* 視るという事態とゲシュタルト

 人が何かを視ているという事態を説明するのは、案外厄介だ。しかし、「装飾」の世界に入っていくには、この視ることに言及せずに先に進めそうもない。そこで「視る」という構造に少し触れてみたい。

 今、私たちが白い紙にある形をもった「しみ」を作ったとする。その「しみ」に視線を落としたとき、何が見えるかは「しみ」を視ることに先立ってある約束事の違いに決定付けられている。その約束事とは、文化というゲシュタルトをここでは指している。つまり同じ文化圏内で同一の文化を共有している者同士ならば、対象となるものを視たとき同じ意味を持つ像を結ぶことが可能だが、そうでない場合は、同一の対象を視ても共通する像は結べないという文化とイメージのメカニズムがあるということだ。例えば、同じ長さの鉛筆で「T」の字を作った場合、縦方向にある鉛筆の方が、横方向にある鉛筆より長く感ずるのが、私たちの文化の中では普通だが、アフリカで樹上生活するある種族では、縦も横も同じ長さの鉛筆に感ずるという調査報告がある。また「十」を見て日本人は漢数字の「じゅう」を読みとるが、恐らく欧米人はキリストの十字架をイメージするだろう。このように、人を「類」として見ると、文化という構造の中で誘導され、形作られるゲシュタルトがあると言える。

* 観念(イメージ)の自律化
個のレベルで見てみると、人は文化的要素に規定されつつも、ものを見ることの中でイメージは自律的に働くと思える。個のレベルでは、一つの「しみ」は百人に百通りの解釈を可能にする。ある人には雲に見えるかも知れないし、また別の人には地図のように見えるかも知れない。このように、特定の文化の中で記号化されていない図柄は、私たちにとって極めて自律的に機能し、自由な解釈を可能にする。

装飾の起源を辿っていくとき、私たちが共通して持っている「イメージの自律化」という作用がとても重要であることが分かる。
 例えば人が、粘土で土器を作っている際、器の表面にある”ざらつき”など質の異なった土の混入等で、均質でない部分が出来たとき、人はそこに視線を落とし、他の部分とは「異」なる空間としての柄を見出す。それをアナログに解釈し、動物や植物等の自然物(具象)として認識する場合もあるだろうし、また、デジタルに解釈し、幾何学的文様やアブストラクトな文様として認識する場合もあるだろう。

縄文土器にしても、最初に縄目の窪みを土器につけたきっかけは、偶然かも知れないし、また縄を押しつけると粘土は縄目を判で押したように写されることを他の機会に気付き、それを器に応用したのかも知れない。何れにしても、一つの窪みが人のイメージを活性化させ、そこに意味の濃い空間を演出する。

凸であれ、凹であれ、一つの窪みや疵がそれぞれ自律化し、人に柄として認識させる。このようなイメージ(像)の結び方のメカニズムが、人類に装飾を生ませたと考えられる。それはヴォリンゲルの言うように「空間の恐怖」が、空いた空間を埋めようとはたらくと言うより、私たち人類が持つまなざしのメカニズムが、イメージの自律化を促す結果として、意味を持った空間としての柄、あるいは装飾文様としてそれを認識すると言える。
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貝製腕輪の変遷

イメージの自律化志向は、何も装飾に限られたものではなく、古代でいえば碧玉製品と呼ばれる貝製腕輪などにもそれらは見られる現象である。当初、碧玉製品の腕輪は巻貝を縦割りにして作られていたが、後に碧玉と呼ばれる美しい石にその形状をコピーするようになり、その段階でオリジナルな貝の形状から離れ、まるで現代彫刻のように美しく鮮麗され、自律した形状へと変容していく。

イメージの考察を続けていくと、原型から喚起される次のイメージは少しずつ変容し、その次のイメージは、さらにオリジナルから離れていく。このようにイメージのメタ構造によって自律化は強調され、原型から喚起されるイメージは、無限に遠く離れていく。土器に写された縄文の窪みは、「縄目の柄」からも自律し、作り手のイメージからも遙か離れて、一つの心地よい表面の雰囲気を作り出し、見る者に充実した空間を見せる。そして、装飾の起源は、このようなイメージの自律性を基盤として成立してきたと言えるのではないだろうか。