<注 1> ミニマル・アート

                                                                             

               

 

バネット・ニューマン作  「ユリシリーズ」  
 
 ルイ・カーン作  「無題」   
 
ドロシア・ロックバーン作 「 ロウブ・シリーズ」
  ミニマル・アートに関しては多くの専門書がありますが、このWeb・Siteでは拙著(『月刊 手』 第9号 1983年 ギャラリー手発行)を紹介します。
 

科学的表現の停滞と消費芸術の台頭

 科学の進展によって引き起こされた文化の激変は、わたしたちの感性も当然のことながら変質させた。そして近代化途上、この科学的志向性がわたしたちの根底に沈み込み全てを支配するようになる。

御多分に漏れず現代美術も、科学的イデオロギーを積極的に導入し、印象派(モネ)による前近代美術の解体から始まり、キュービズムから構成主義、抽象主義をへてミニマル・アート(日本ではもの派)そしてコンセプチュアル・アートに至るまで科学的志向性[事物を対象化し、対象化した事柄を細分化することによって検証の精度保証をとる考察態度]が美術の展開を貫徹した。

それはちょうど「人間とは何か」の問いに対し、視覚を視座にすえ、人体をまず頭、首腕等々、各部位に分割することから始め、同時に人体の物質的成分を割り出し、最終的にアミノ酸の連鎖結合であることを発見し、さらにラディカルにそれを炭素、水素、酸素の三元素へと細分化する科学的志向の貫徹へと向かうことに相当する。もし、セザンヌが現在生きていたならば、ミニマル・アートを見てこう言うだろう、「ミニマルは、ただの単位に過ぎない。しかし、なんと美しい単位なのだろう」と。                  

科学的志向性によって極小単位にまでなったミニマル・アート以後停滞した科学的表現以降の美術が再び活性化するには、何を方法論として持てばよいのだろうか?           

 今、先進文化圏ではその資本主義生産様式は発展成長しつつ停滞するといった非常に複雑な様相を呈している。そこで今日までその有効性を保った従来の科学的態度は一応終焉し、社会が活性化するには、さらに深化を徹底させた高次な科学を求めるか、逆にそのような科学的態度を放棄・否定して新たなる方法論を持つか迷っている。いずれにしても、従来の科学の進展によって細分化してしまった世界を全体的視野で俯瞰統合する方法を私たちは持たなければならない。しかし、だからといって、科学的イデオロギーの全面否定から、過去の文化の安直な礼賛と短絡した回帰へと向かい、保守的な帰属感を満たすため、前衛志向による必然的不安を安易に解消し、創造的たらんことを放擲し、居心地のいい”類似”(ニュー・ペインティング)へと落ち着くことだけは避けたい。

 ・・・・・・だが一方、芸術が創造的価値観から消費的価値観へとその視座を移行させていることもまた否めぬ事実である。かつて芸術とは観念の生産として活性化して来た。そして社会が活性化するにも生産が主軸として捉えられた。しかし、今日では社会の活性化の構造を、消費の視座からも生産の視座からも、双方が等価に見えるようになっている。人間の生産様式を生産労働の視座から捉えかえしたのはマルクスであるが、しかし、今日消費「労働」の視座からも、人間社会の構造が探れるようになり、この方法論がますます有効性をもつようになりつつある。このことは芸術も消費の対象とする観点が一般化し成立することを意味し、社会構造の変質と共に芸術もそれに対応し変遷していることになる。そして、消費の結果の残留物として作品と称せられる「もの」が存在するといた構図が現れる。

創造し、鑑賞物を作製することが表現の目的になるのではなく、何はともあれ造るという消費行為が表現と考えられる。つまり「見ること」から「行為すること」への移行の一般化である。このような消費芸術の一般化を支えるのが作り手である作者の生活基盤の在り方、即ちアマチュア性の台頭と一般化でもある。        

 ・・・・・・資本主義社会の臨界線が見える・・・・・・。                 1983 年3月3日  

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