KAMAKURA HISTORY
 PLOFILEを御覧頂けるとお分かりのように、僕の漆芸との出会いは鎌倉彫でした。この世界に入った頃(1975年頃)日本の美術界の思潮はミニマルアート、コンセプチュアルアートがまだまだ中心に居座って居た時代でした。当然装飾的なるものはダサいとして退けられていましたから、その権化だった鎌倉彫はどうしようもなくマイナーで時代錯誤もはなはだしいものに僕の目には映っていました。実際、鎌倉彫は今もって一部のアマチュアの趣味人が、お稽古事として楽しむ世界として成立していますが。

そんな状況の中、新しいものを造りたいという衝動をどう表現へと繋げたらいいのか周りをキョロキョロ見渡したところ、たまたま工房の先輩が「日展」へ出品していたこともあり、最初に飛びついたのが現代工芸美術家協会でした。当座、内容云々より自分の内面から突き上げてくる表現欲求のはけ口としてかっこうの場となり、どっぷりとはまっていました。しかし、僕の所属していた木工芸は、抽象の carving  が主流で、それを続けていく内にそのコンセプトが今世紀初頭のキュウビズムやアールデコの焼き直しであることに気づき、急に熱が冷めていきました。

今考えると美術の体系だった学習を持ったことがなっかたため、美術のコンテクストが抜け落ちていて自分の立っている「場」のようなものがつかめなかったということだったように思います。

「蓮花文碁器」  後藤斎宮作   

「空間における連続性の唯一の形態」 ボッチオーニ作
 carving という概念を極力 modern というコンセプトに近づけると、どうしてもキュービズムを避けて通れません。当時鎌倉彫に関わり、ある「新しさ」を求めた者は例外なく同じ道を辿っていました。

「その時代に沿った、もっとも新しい表現(コンテンポラリーアート)はどこにあるのだろう?」といった思念を持ち始めたと同時に、鎌倉彫というものが得体の知れない何かグロテスクでキッチュなものに見えて仕方ありませんでした。一日も早くこの世界から足を洗って「本当の今の表現をつかまなければ」という思いは日に日に増して行き、ついに鎌倉彫の業界を出て作家としての道を選ぶことになります。この業界から作家になった先人は皆無に近かったので、今から考えると無謀な行為だったと思います。

しかし、当時の自分は真面目に「本当の表現」を探しに足を踏み出すことを決意しました。振り返ってみればこれは「本当の自分」探しの始まりだった訳ですが、でも真面目に、真剣に思いつめていたようです。この日から「鎌倉彫」というものを<無意識>に押し込め、そこに堅く蓋を閉めそして現代美術へ傾倒していきました。鎌倉彫が自分の表現として表に出てくるのは、その後十五年経ってからの事になります。

ちょうど時代は正に post modern へと突入し、それまでのストイックな表現から無節操なくらい過剰な表現が堰を切ったように溢れ出て来ました。そのような時代の気分に後押しされたこともあって自分の中に「加飾とは何か」、「装飾とは何か」といったテーマが浮上し、デコラチーフでキッチュな表現は、実はわれわれにとってかなり本質的で重要な表現であることに気づかされます。

日光東照宮

桂離宮

日本の過去の表現を振り返ってみると、ストイックでミニマルな表現の代表として「桂離宮」があげられ、その対極にある過・装飾でキッチュな表現の代表として「日光東照宮」が上げられます。

一見両極にあると思える二つの表現も、実は「無限」という枠組みでくくられるといったとても穿った見方を、1987年の美術手帳10月号で宗教学者の中沢新一は、美術評論家多木浩二との対談で述べていました。「江戸ラビリンス」と銘打ったこの企画の中での両者の発言は恐らく戦後の美術界の中でも際立って深く豊かに冴えわたっていたと思います。興味のある方は是非古本屋を覗いてほしいと思います。


椿梅椀    東 日出夫作
円熟期に入った日本の資本主義の中で漆芸の得意分野であるはずの「装飾」という表現を続けることは、パトロンなき今日とても難しい選択であることは確かです。作業に割かれる仕事量と絶対時間の関係から賃金が割り出される僕たちの資本主義社会は、良い悪いは別として前近代の手工芸を成立させるようには出来ていません。しかし、加飾への興味は尽きることがなさそうです。」  (この項続く)