伝統美術について


私たち人間の表現を成立させている基盤は、大きく分けて二つ、一つは私たちのもつ心的領域(幻想領域)、そしてもう一つは所謂下部構造(テクノロジーと経済)であるが、その時代にはその時代の最も自然な表現の成り立ちがある。現在で言えばコマーシャル美術というメディアがそれにあたると思われる。

つまり美術の中での基幹産業だ。そこでは、最も新しいテクノロジー(コンピューター)を使い、その時代のスピード(時間意識)で、さまざまな心的領域を形にする。「その時代の時間意識を決めるのは、その時代の基幹産業の運営スピードだ」というようなことを吉本隆明氏がどこかで言っていたが、表現もそれを生きたものをするには、否応なくその時間意識に規定される。江戸時代には木版でよかったものが今では写真製版となるのも、人の感性がその時代の経済構造とテクノロジィーの基盤の上に形付けられる一例だ。

ひるがえってみて、私が所属する伝統世界はどうかというと、コンテンポラリーな表現とは次元が違っていて、二つの構造(経済・テクノロジィーと心的領域)とは位相が重ならない。私の扱うメディアは木と漆、しかし感性は「今」というギャップをどう調和させるかが表現を成立させる大切な力点になっている。

加えて「現代」という方角からその存在理由を疑う問いも常に用意されているのが現実だ。しかし、不可思議な人間の心的領域は「今」だけで成り立っている訳ではなく、よく覗いてみると、その古層(精神的 DNA)には、さまざまな位相の心的領域が錯綜として混在し、私たちの感性にインストゥール(すり込み)されている。

我々は雅楽も聴くし、クラッシクも聴く。同じように縄文の器に驚かされ、明日香・斑鳩の石舞台や仏像に心癒される。それは、過去の文化の内容に現在の我々の心が共振させられるばかりではなく、「今」の感性を持って過去の文化遺産を再インストゥール(再解釈)し、そこから新しい感性が新たに生まれると言うことでもある。伝統が無意識に現代を規定し、その現代が伝統をリメイクするという循環が文化のダイナミックな運動の実態と言える。私たち伝統美術にかかわるものは、無意識の古層とコンテンポラリーな情念とを巧みに橋渡しするよう仕向けられた使者なのかも知れない。