(本阿弥光悦)
オリジナリティーを考えると三大文明発祥の地へと行き着く。

どの文化圏に依拠しているかによって行き着くところはそれぞれだが、「origin」という括りで文化を考えると、大体が文明の発祥の地へとその起源は遡行し収斂する。

そして、僕らが普段使っている日本語に関していえば、その起源は中国の漢字にある。従って、日本語の中核には今でも「漢字」がでんと居座っていて、その周りに平仮名や片仮名、そして最近では英字が添えられている。

それじゃ「平仮名(女手ともいわれる)」は、副次的で漢字に従属した低位なものなのか......というとこれはそうではない。

僕らの持っているイメージ(心象)は自律的なので、一度定着した「もの」「こと」を改めて眺めれば、そこから、また新たな別のイメージが表出する。

レオナルドダビンチが言ったように、僕らは「壁の染みを見ただけで、そこから様々なイメージを想起する」。

「染み」は、ある人には「雲」だったり、単純に「地図」だったり、怖い「お化け」だったりする。

その意味で全てのイメージは、その像が起点となって無限の新たなイメージを想起させる。その意味でイメージは自律的だ。





上の画像は、「書の至宝展」に出掛けた際に撮った東博の夜景です。

top の画像は、木立から透けて見える本館。中央の画像は、その本館の画像を見て想起されたイメージを元に発想してシャッターを押した新たな画像。
 続いて更に新たな画像へと順を追ってイメージは自律的に喚起してゆく..........。

そして、ぼくらのイメージは、上のそれぞれの画像に関しても
別々なあらたなイメージを喚起させてゆくと思う。









全ての像は自律的なので、その像は、それを喚起した元の像とは無関係に独自の像として完結する。そして、この像は元の像と同じ様に、また新たな像を喚起させるといった無限運動へと繋がる。

その意味で「女手(ひらがな)」もオリジナルなものと言え、派生的ではあるが、独自のものとして成立している。
そして、ひらがなの特徴として、次の文へ連なり、重なりながら、そのフォルムと並行して意味をも連動させ展開する。

ひらがなの文字一つ一つを単独で見ても、それぞれ美しさを保持している。さらに全文体の中で、その文字が指す意味合いと、他の文字が指す意味合いとの重なりから、形ばかりでなく意味をも重層化させ、ひらがなの出自とは離れて全く新たな世界を紡ぎ、表現に深さを加えている。


(小野道風)
連歌とは、ひらがなの持つ前後左右へと繋がり連なる、形態と意味の連鎖といった、ひらがな独自が持つ志向性故に生まれた文字表現といえる。

ひらがなは、単なる指示性をもった記号としての文字ではない。それは、「文」を構成することによって、前後左右の文字と関係を強め、そして結ぶことによって、時には全体をも俯瞰する視線を獲得している。それ故「文」全体の意味を構成する上でも、個々の文字一つ一つが重層的に「文」全体の美しさを決定付ける要素として働いている。

こうしたひらがなの有り様が、書かれた空間を二次元・三次元へと拡張させ、そのフォルムと内容を深めている。

単独ではなく、「他」と繋がることによって「単独」以上の美を生み出すひらがなに、もしかすると日本人の本質があるのかもしれない.......と、つい穿った見方をしてしまう。

(伏見天皇)
行をかえて書き出すこと、そして、上下左右に飛んで書き出しがあること(散らし書きと呼ぶ)は、僕ら日本人には何ら特別のことではない。しかし、これは世界の文字表記の中では特異なこと。

以上のように、平仮名が、ものを指し示す指示性だけの記号から、意味をもった表記となり、さらに空間表現へと発展するのは、常にひらがなが、他の文字との関係で自分自身を捉え続けるといった繰り返しの中から生まれたためといえる。そして、そのことが単なる記号としての文字から派生したひらがなが、やがて空間表現へと次元を上げて自律してゆく。

僕らは、ひらがなが、単に漢字から派生しただけでなく、更に深く表現領域を発展させていったところに、その「オリジナリティー」を感じるように思う。