薬研彫りについて
柳 宗悦が選んだもの..................

(石偶 縄文時代......正面)
最もプリミティブな人の表現はというと、それは恐らく地面や岩肌に尖った石や木の棒で引っ掻く行為に違いない。

平滑な面を棒などで引っ掻いた跡の断面はV字となり、光線の角度によって強弱の影を生む。人はその影を見て、ある『像』を浮かべる。
 このプリミティブな描法は、それが極めて単純であるが故に時として強いイメージを僕らに喚起させる。

ここに(上部画像)ひとつの石偶がある。資料に目を通すと........
幅19cm 石で造られた偶像で、岩手県下閉伊郡岩泉町袰綿(ほろわた)遺跡から出土した、約3000年前の亀ヶ岡文化晩期を代表する品である.........とある。
この石偶日本民藝館を開設した『民芸運動の父』柳 宗悦晩年の蒐集で、「民芸館の全ての蔵品を、この一個に換えても良い」と言わしめた名品である。

恐らく、実物を目の前にしたら僕も同じ感想をもったに違いない。

この石偶に刻まれた線刻文様は、僕の入門した鎌倉彫の世界では『薬研彫り』と呼ばれ、極めて初歩的な刀法だ。(この石偶の場合は、彫りというより線刻といったほうが良さそうだが)。

(薬研)
『薬研』とは、薬草を細かく磨り潰す道具で、その断面がV字となっている。ここに『薬研彫り』の由来がある。

『薬研彫り』は、最も素朴な彫り方で、鎌倉彫の世界に入ると直ぐ基本刀法として叩き込まれる。

浮き彫りの世界は、二次元でもなく、そうかと言って裏側がないので三次元とも言えず、二次元半とでも言った方が適当だ。なので線刻は明らかに線とは違い、ある「厚み」をもっている。
実は、この「厚み」が二次元の「線」とは違った意味と深さを生む。
 一本の薬研彫りで入れた線刻は、文様として機能すると共に、その線刻の両側にものとしての「塊」を造り、それが僕らに絵画的な平面とは違った次元を意識させ迫ってくる。

また、この石偶に数箇所みられる「欠け」も、自然に抗して形作った人為を際立たせている。調度、モラトラケのニケやキレーネのアフロディティーの頭部や腕部が欠けていることが、かえってその美しさを強調する効果を生んでいるのと同じだ。

(石偶 縄文時代......背面)
さて、話を石偶に戻そう。

恐らく石器で彫ったであろうこの線刻だが、勿論稚拙ではある。よく見ると、ところどころ破綻している箇所も見受けられる。しかし、硬い石の抵抗に抗して刻まれた薬研彫りと、それを支える石偶そのもののフォルムは、生命力に満ち溢れ途轍もなく美しく、我を忘れるほど魅惑的である。

稚拙には見えても、これを造った作者は、当時としては秀逸した技能をもった者だったと思われる。

『薬研彫り』という素朴な手法は、それがプリミティブであるが故に、より直截的に、そしてヴィヴィットに人のもつ表現欲求を表出する。

さらに、表現の水準が必ずしも技術の水準と重なるものではなく、『薬研彫り』というシンプルな表現方法でも、充分に人の魂に届く表現が可能であることをこの石偶は語ってくれている。

多彩な技術が人の胸を打つ場合も勿論ある。でも、無意識よりさらに深い、下意識よりさらに深遠な領域から起ちあがって来るような表現欲求を形にしようとする場合、最早技術は副次的だ。そして、石偶とそこにある『薬研彫り』は、「今」を否定してさらに新しい表現を......と、大海原に漕ぎ出て難破しかけた時、僕らが何処に還ったらいいのかを常に指し示してくれている。

昨年、書店で偶然見つけた、別冊太陽『柳 宗悦の世界』にこの時期出会えたことは、とても幸運だった。

2006年 五月。