サリン事件

この前の六本木での個展のとき,一緒にいらしてくれた知り合いの姪御さんがとても面白いお話をして下さったので・・・紹介します。

その姪御さんは,まるで中学生?と思えるほど幼い感じだったけれども,実は筋金入りの細胞の研究者で,現在かの有名な茨城の大学院まで朝5時起きで通っているそうです。 

彼女が言うには,人間以外の細胞は,死にかけると周りの細胞が皆で助けに来るけれども,人間の細胞は「パーッ」と逃げちゃうといいます。そして,死にそうな細胞そのものは必死に周りを巻き込もうとする超わががまに出来てるらしいです。その意味で人間の細胞は決して倫理的には出来ていないそうです。

このお話の中に今回の宗教に絡んだサリン事件の謎を読み解く鍵がありそうに思うのですが・・・・・・・・・・・・・・

僕(b):麻原彰晃こと松本智津夫が死刑判決を受けたけど,今回の事件で感じたことは?

無意識君(m):様々なことを感じたんだけれど,ニュース報道をみて一番印象的だったのは,松本サリン事件の被害者兼当時容疑者だった河野さんの発言かな。何であんなにも冷静でそれでいてとてもヒューマンな思慮深い態度が取れるのだろう・・・・・?と思ったね。

b:なるほど。。。。

m:ラジオで宮台真司が言っていたけど,人間には「毎日が平凡でも明るく楽しく,飢えなくその日が送れれば充分」というタイプと,「生きる意味だとか,人間を・・・・というか人間という概念を超えてある理念のようなものを自分の中に描かないと生きていることの実感をもてない」タイプと,大きく分けて二種類いる。。。。。。

b:随分乱暴だね

m:まっそうなんだけど・・・・でも,僕なんかは以前も触れたと思うけど美術や文学,そして宗教,もちろん芸能も含めて矢張り吉本さんがいう幻想領域(人間が観念で生み出す心理的領域)が自分にとっても重要なポジションをとっているので,今回なんかのオウムの宗教に関する部分は結構シンパシーを感じるところはあるな。テロの部分は深く麻原に聞いてみたいし,河野さんが言っていたみたいに,麻原自身の口から直接怨みなり嫉みなり憎しみなり・・・・なんでもいいから口を開いて言って欲しかったな。

b:ただ金持ちになりたい,女にもてたい・・・って言う位の程度のきっかけしかなかった様にも見えるけどね。とても宗教的教示があるようには思えないけど。。。


 

(asahi.com より)

m:そう言ったら身も蓋も無いけど,人間程度の差はあっても誰でもそういった部分は聖人といえどもあるんじゃないかな?問題は,じゃ何故多くの「お頭のいい」信者が入信動機とまったく逆の殺人行為へとオウムが向かったとき,それを阻止できなかったんだろう・・・・ということ,そして,ある意味で優秀で純な精神を昇華するような受け皿が,今の日本には何処にも無いということはかなり問題だと思うね。
 その意味で彼らはある障害(人生の意味などということを考えてしまう人種に生まれてしまったこと)を持っていたと思う。そして、うまく方向付けられれば社会にいい意味で貢献できたと思うよ。とても残念だね。

b:そう言えば君も宗教家になろうと思ったことがあったような・・・?

m:・・・・・。実は,中学3年の進路決定のとき「俺牧師になるから高校はいかないよ!」って言っておふくろを泣かせたことあるんだ。その時の心境を思い返すと・・・・・自分が妙に卑小に感じたり,汚らしく感じたり,まったく役に立たないやつに感じたり・・とコンプレックスの塊だったような気がするよ。そんな自分が一気に高貴になれるのは,やっぱり宗教が一番簡単で安易だったような気がする。観念的に超越することは覚悟さえ決まってしまえば簡単だから。あとは,人から変わった奴と言われるくらいで,かえってその差異性が優越感になったりするから都合がいいんだ。

 でも,あとから反動が来て,今度はその偽善性に苛まれるんだな。そして,さらに本当の真理とは,本当の自分とは・・・・と言った問いが湧き上がってくるんだ。人間って厄介だね。

b:君が。。だろ!

m:そう僕が・・・・。いずれにしても無菌豚(僕が世間知らずで善的なものしか興味を示さなかったことをさして,悪友が僕に付けた名)じゃ駄目だけど,そういった無菌豚さんをうけいれて,そのエネルギーやベクトルをみんなの役立つほうへ向けるシステムと受け皿を作らないと,同じような不幸な事件が繰り返されるね。

b:だとしたなら被害者が今後も出ると言った前提で,国は被害者補償の態勢を精神的なフォローも含めて積極的に取らなきゃね。ほんと人間って厄介な代物だね。  

m:イエスキリストや親鸞が,「悪人であるからこそ救われなければならない・・」という概念を口に出してしまったが故に,人間は相当無理をしてそのキャパシティーを広げなければならなくなってしまった・・・・・。これは、まさしく「狂気」なのかもしれないね。それは,人間の本性に反する観念だから。

イエスは,十字架に架けられている間「愛」というエクスタシーの内にあったのかも知れないと思う。これは,非人間的な「自己中」そのものかも知れないけど,それも人間のある一面でもあるし人間というものはとても矛盾しているね。

つづく