もう手掛けてから2年以上経っています。仕事の合間(ほとんどありませんが;;;)に彫っています。気に入った硯箱の木地がなかったので文箱を手直ししてみました。世話になった人へのプレゼントと考えています。


古典から学ぶものは思いの外多いので、定石通りに淡々と進める古典の模刻は、とても勉強になるし彫っていて楽しい。

これは不思議なのだけれど、木彫という作業は、仕事という感覚は全く生じない。不謹慎かも知れないが作業中は遊びの感覚だ。もちろん疲れなど全くない。適度な肉体の負荷と、経過が目で追えるものを作る行為は、精神がどんどん解放され、加えて魂が充実するのが確かな実感として感じ取れる。何故だかは分からない・・・・。アートセラピーとして、絶対効果があると思う。

精神が解放される感覚は同じだが、落書きとはまた違った感覚だ。

(手作りの小道具達)
上の画像は、ヤスリや畳み針、そして、コンクリート・ブロック割り用の針などで作った自家製の小刀達です。全てが鋼で出来ているので、素人には砥石の上で小刀がつるつる滑ってまず研げないと思う。僕らには、まず刃こぼれもないので惜しみなく使えて重宝している。

鎌倉彫は、いわゆる浮き彫りの範疇に入る訳だが、この分野は平面としての2次元でもなく、だからといって立体としての3次元でもなく、2.5次元とでも言った方がいいような微妙な次元をもつ。

浮き彫りは、絵画的平面のような極めて観念的なイリュージョンとも違い、立体彫刻のように触覚的にその量塊を確認が出来る訳でもない。絵画的なイリュージョンをもちつつ凹凸がある分、半立体とでも言った方がいいような微妙な空間だ。

(奈良興福寺 十二神将 迷企羅)
上の画像は、国立競技場のメインスタンドの壁面にシルエットがある、お馴染みの十二神将(迷企羅)です。ロダンをも凌ぐ身体の捻りによって生まれるエントロピーは、神将を象徴する上で優れて効果的です。リリーフと呼べる日本の木彫のなかでは、最も優れている傑作中の傑作といえます。

恐らく厚みは5cm〜7cm程でしょうか。うっそ〜、と思えるほど薄い板に施された浮き彫りは、3次元の立体のように、いやそれ以上に「立体的」に感じさせる迫力があります。

昔、仏師の修行は、最初から立体を彫るわけではなく、始めは板彫り(浮き彫り)から入ったそうです。それは、人間の視覚のもつ錯覚を上手く取り入れるという狙いがあったとおもわれます。
 凹凸によって生まれる影の効果とそのイリュージョン(幻視)を鍛えることによって、よりリアリティーのある表現に近づくことを目指したのでしょう。それは、ちょうど実物から型を取ったディスマスクより、優秀なアーティストが表現した彫塑の顔の方が、実寸は違ってもよりリアリティーをもつのと同じ理屈です。

より立体に見せることを学んだ上で、実際の立体に取り組むこと。そのことは、実寸以上の「何か」を付加させることの意味を暗に要求されていることでもあります。

(椿梅椀)
平面にひかれた一本の線が、無限のイメージを喚起するのと同じように、一本の溝も、その彫り方によって多くのイメージを生む。
 浮き彫りの作業は、そういったイメージのもつ錯視(イリュージョン)を確認したり、また敢えてそれを狙ったりしたことで生まれる効果の確認が楽しく面白いのかも知れない。何せ、それまで何もなかった空間に、出来上がってみるとひとつの葉っぱが現れ出るのだから。

でもそれは、葉脈をもった光合成を営む瑞々しい「葉」ではない。けれども、明らかに「葉」と認識できるものだ。素材は、乾いた木材であるのに・・・。

(椿梅椀)
イメージを喚起するイリュージョン(錯視)の中身は、実はそう簡単ではない。そこには、人類の誕生以来の表現の厚みがぎゅっと詰まっている。なので、ネアンデルタール人の後に続いたといわれる、われわれの祖先である現生人類が、いきなり板上に彫られた葉を見せらても、それを「葉」とは認識しないかも知れない。イリュージョン(錯視)が生まれるには、葉を「葉」とする文化的な決め事(ゲシュタルト)の反復が必要だからだ。


.............こんな理屈は別にして、コリコリ・コソコソ・ザバザバと小刀で板を削る木彫は、ほんとうに楽しい。

もうちょっと木彫が見直されてもいいんだけどな〜.....................。