↑↑は、『落書きシリーズ』の小道具たちです。他にも様々な大きさや材質のものがあります。

(落書き銘々 下地)
『線』とひとことに言っても、その趣は様々です。

たった一本の線に含まれる内容は、どの様な「想い」で描くかによってもまったく違った表情を生みます。それ故描く側は、その「想い」を最も効果的に表してくれる道具を選びます。

たかが「線」なのですが、安全ピンで引っ掻いて挽く線と、極細のピアノ線で挽く線とでは、まるで違った表情になります。細く削って作った竹串で挽いた線もまた微妙に違ってきます。

そして、描く側の姿勢やコンディションによっても可成り違ってきます。緊張して張り詰めた想いで挽いた線と、リラックスしておおらかな気分で引いた線でも大きな違いが出ます。

『線』は、選ばれた素材や道具に加え、描く側の身と心の関数として表出されます。そこが『線』のもつ面白さであり魅力でしょうか。

(幡横穴6号玄室壁画   茨城県常陸太田市幡町)

(渦巻きと斜線の深鉢 縄文後期 千葉県堀之内)
並行に描かれた直線をもっとも簡単な文様とみなすのは、直線が<自然>の対象物のうち、もっともありふれたものだからではなく、それが最初の<抽象>を意味するからである。(『心的現象論T』 吉本隆明)
そもそも点や線が、面積や幅をもたないという約束事があることはご存じの通りです。つまり、点や線は極めて観念的な産物で、それ故にとても人間的な表象だと思います。点を打つ、そして線をかくことそのものが既に抽象的な表現になっているわけです。

(落書き銘々 下地)


(落書き銘々 下地 ..............部分 )
「落書きシリーズ」をウェブ上で紹介するのは、今のネットの環境ではかなり難しいので、あまり積極的に掲載していません。質感を含め、制作したものの全体が見えないと「落書き」の面白さは伝わらないのです。大きな画像をサーバーやPCに負担なく扱えるようになったら「落書きシリーズ」も分かり易く紹介できるものと思います。

(1982年 『無題』 ..............部分)
この「落書きシリーズ」は、僕の中では既に25年以上前に始まっていました。着想は、当時の巨大なコンピューターから、暗号のように打ち出される解答紙であるパンチカードでした。今ではまったく見られない光景ですが、このレジで打ち出される領収書のような細長い紙切れに打たれた、小さな丸い穴の群がとても美しく思えたのです。

無機的な人間臭さとでも言ったらいいのでしょうか。。。同時に、ある法則性に則った無機質な「柄」に、無性に肉質で生な矢印の線や塗りつぶしなどの殴り書きをしてみたくなったのです。


(1982年 『無題』)
わざわざ様々なサイズのポンチで和紙に穴をあけたこの作品は、相当手間が掛かってます。若かったから出来た作品でしょうか。いやいや、うるしを使って蒔絵で仕上げる今の作品の方が、返って密度高く手間が掛かっています。

振り返ると、「落書きシリーズ」も、もう既に25年も前からずっと拘り続けているテーマであることに気付きます。同時に「線」が、表現として、とても深く尽きない魅力ある素材であることも。


実は、手打ちであけたこのパンチカードを模した和紙は、まだ未完成のまま数枚残っています。機会があったら更に深めて「今の線」を表現したいと思います。    請うご期待。