『Mushikui - Zushi』 |
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何と三年振りの更新となります。
このコーナー「Today's working 」は、本来の?自分の無意識からの発言の様な気がしますのでとてもリラックスして更新できます。
Mushikui シリーズをスターとさせてどの位経つのでしょうか。。このコンセプトは、タモリの「高低差ファン」じゃありませんが、凸と凹の妙というか、僕ら人のもつ視覚の基準が移り変わって行く際の混乱の面白さと楽しさを表現に置き換えたものです。
人間の観念は自律的なので、当初の表現から少しずつ離れ進化してきたように思います。自律的というと格好いいのですが、飽きっぽいというか、新しい風景を見たい欲望が常に湧いて出てくるということと、Mushikui
を通して自分が何を見たがっているのか知りたいということもあると思います。
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Mushikui シリーズの道具はトリマーという溝彫の建築用工具を使うのですが、時の経つのは速いもので、これで三台目になります。初代は、大工牧野からもらった優れものでしたが、野外真夏の炎天下での作業中オーバーヒートを起こしご臨終となりました。僕も若かったので夢中で作業を続けていたので、機械がヒートアップしていることを感じ取れずにいました。Makita
のプロ仕様でしたが、無理強いはいけません、機械の身にならないと。 |
トリマー替刃etc |
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浮彫は、絵画と彫刻の「間」にある表現です。つまり二次元と三次元を行き来する表現とも言えます。輪郭に視座を置けば、絵画的な平面の組み合わせの妙となり、凸凹の陰影を意識すれば視覚は遠近を調節しながら物理的な奥行きを立体的な妙として面白がっているといえそうです。実際は、この両方が混然一体となって全体を構成しています。つまり、同一平面を二次元の平面として視ることと、ある厚みを持った三次元の遠近=奥行きを視ることとが瞬時に入れ替わりながら作品を視ているといっていいと思います。凸として視ていた視線をずらすと、いつの間にか凹に移っていたりと、そこでは様々なイリュージョンが交錯します。
この辺のことは、過去に「僕の原風景 」として詳しく触れているのでご覧になって下さい。
絵画や彫刻は、所詮イリュージョンなので、ある錯覚とお約束(制度)を視ていることになる。絵画も近づいて視ればキャンバスや紙に塗られた絵の具の被膜であるし、彫刻も近付いてしげしげ視ればただの物質だったりする。美術の妙は、このただの紙に塗られた絵の具が、花や人そして抽象的な柄に錯視されること。ひいては、そのことを通して風や匂い、そして悲しみや幸福、そして虚無までも表現できたりする。 |
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Mushikui シリーズの場合、彫刻する素材は木の板材、あるいは今回の様なMDFとよばれる粒を均質に揃えた木粉を圧搾して加工された板材を使う。この場合気を付けているのは(僕はプロなので普段は無意識です)素材の「厚み」です。彫刻部(あるいは溝部)の深さは、素材の厚みとのバランスを考えないと良い仕上がりになりません。深すぎると迫力は出ますが品がなくなります。逆に浅すぎると生命感が乏しくなります。
生命力と品を、深さと厚みの関係の中で決めていきます。プロは、ぎりぎりまで浅く、かつ生命力を保つポイントで作業を進めます。ここが妙です。 |
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浮彫の場合、僕らは視覚的に何を視ているのかというと… それは光と影です。特に今回の場合の様に立ち上がり(彫刻部の壁と底面の角度)が直角の彫り方を「きめ彫」といいますが、この彫法の典型はエジプトの浮き彫りに見られます。 |
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エジプトは太陽光がきついので、こういったきめ彫で光と影を強調させた表現が活きます。美術というのは、その根底に気候風土などの条件に縛られるというか、そういった条件に沿った表現に結局のところ行き着きます。日本の浮彫には、こういったエッジの立った表現はあまり多くはありませんが、僕の修行した鎌倉彫には、何点かの傑作があります。 |
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室町古典椿紋笈 |
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