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先日、そろそろかな?と思っていたところに、大工牧野のドングリ入りの銀杏が届けられた。

また、この季節が巡って来た。

ようやく秋らしくなってきたと思ったら、もう冬がそこまで来ている予感。
 油断したのか、先日塗りをしていたら鼻水が止まらず、仕方ないのでティッシュを詰めて仕事を続ける有様。鼻炎かと思ったらどうやら風邪を引いたらしい。
風邪は大したことがないので、仕事は続けられている。
さて、本題の working だが、今自然石を眺めている。それは、新しい厨子の提案ということで始まった一連の流れで、仏具全般を見直してみたいといった想いから来ている。

最近「散骨」という言葉をよく耳にする。「散骨」そのものは、古くからある埋葬形式だが、多分僕らより上の、所謂団塊の世代の中で出てきている新しい「死生観」からきているものと僕は思っている。 それは、形骸化した今の法事から、もっと原点に立ち返って、亡き人を弔いたいといった素朴な願いなのではないだろうか。

思い返すと鎌倉彫の修行時代、僕の入門した工房(博古堂)では、年に何度かお位牌の注文があった。それはそれでいいのだが、縁あって今日の厨子を作る機会をもったので、今の位牌とはどの様なものになるのかを考えてみた。
画像がないのが残念だが、イサム・ノグチが生前「自分が死んだらこの石を使ってくれ」と言い遺した墓石がある。それは、彼が石の彫刻用に手に入れたものだが、その自然石があまりにも美しいので、自分が加工したらその石が本来持つ美しさを損なうと考え一切手を付けずにおいたものだ。あれだけ石そのものと格闘した彫刻家が「何も加工しない」ことを選択したことの意味は大きい。

イサム・ノグチの真意を確認することは出来ないが、自然科学がここまで発展した現代の日本人にとっても、恐らく「死後」は自然に還って行くといったイメージが素直に湧いて来るのではないだろうか。日本人にとっての根源的な最終単位は、未だ「自然」なのではないだろうか。。。


アメリカでミニマルアートがブレイクした1960年代、ここ日本では、今ひとつ表現として傑出したものが出なかった。それは、アメリカにおいて、これ以上削ることが出来ないといった極小単位が「単一の色」だったり、正方形や立方体といった人間が考え出した「概念」に喩えられた訳だが、日本では、この点が合点がいかず、むしろ 日本においては、これ以上削ることが出来ないといった極小単位が「自然」という概念に置き換えられ、所謂「もの派」としてミニマルアートが開花したといった経緯がある。

(李禹煥 「関係」)
僕ら日本人にとって、最終単位に還元するということは、取りも直さず自然に還るということを意味するのではないだろうか。


そんな想いから、どこにでも転がっている様な自然石を使って、彼岸と此岸を橋渡しする何かを作れないものかと思案している。

一口に自然石と言ってもいろいろだ。下手をすると46億年の地球のDNAを引きずっているものもあるかも知れない。そう思って石を眺めると、何でもない石ころが、ひとつひとつそれぞれに違った個性を持った愛おしいものに見えてくる。
自然石を眺めていると、石そのものの持つ美しさに敬服すると共に、その無垢な石そのものに、何かを刻み込もうといった衝動に駆られる。

そんな自然石を手にとってじっと眺めている今日この頃です。