今日の厨子について
厨子とは、もともと大切なもの一般を入れる調度でした。後に仏典など最も貴重なものを入れる調度となり、さらに、亡き人を祀る仏壇へと変遷し今に至っています。
「今の厨子」を作るのは、いろいろな意味で難しいところがあります。一つは、現代社会では、あまり表に出したがらない「死」の問題があります。それから宗教の問題も大きい要素です。

加えて「死」とは、本人の問題ではなく残された人の問題だということもあります。そして、死の迎え方は人それぞれです。残された人間にとって辛い死。天寿を全うして向かえた目出度い死。出来れば、それら様々な場面に応えることが出来るよう厨子を制作したいものです。

そして、僕らにとって「死」を遠く離れたものととらえるのではなく、もっと日常に引きつけたものとしてとらえ直し、その意味でなるべく俗っぽく解釈したいと思っています。

今回<飲兵衛・魯・色気・暢・頑固・臍曲がり・我が儘>等の古文字<殷墟文字>を選んだのも、残された者が故人を偲ぶ場合、一般的には法事に沿って行われるのが普通です。しかし、人が亡くなってしまい目の前から居なくなるという事実は、所詮人には理解できないものです。

だとしたならば、故人の何気ない日常の「癖」や、どうしようもなかった性格(例えば、優しさや臍曲がりなど)、そして生前の好物などを一つのメタファーとして古文字に置き換え、その字面から故人を思い起こすという流れが抹香臭くなく、そして、特別気張らずに出来る、今日的な彼岸との対話のような気がします。
科学の恩恵は十分に理解できるのですが、その功罪の罪の部分に、「死」を科学的理解を超えた忌まわしいものとして近代人はスポイルしてきたという事実があります。生のみに重きを置いたこの様な考え方は、ふとした日常のなかで、僕らの生が、なにか大切なものを欠いている様に感じるのも、そういった経緯から来ているのではないでしょうか。

こらからも、更に俗っぽく、より身近な厨子を作り続けたいと思います。