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ひとは「純粋贈与」に感染するそうな(中沢新一の言葉? 宮台真司だったか。。)

大工牧野以来の凄い奴に出会ってしまった。地元但馬の古文書教室の講師 森田葱(しのぶと読みます)氏だ。二人に共通するのは純粋贈与的な振る舞い。5与えたから5返すといった等価交換とは訳が違う。講座では、参加者はその気になれば5の何乗倍の恩恵を受ける。

具体的には、¥4,000/年の講座参加料だが、配られるテキストだけで参加費を上回る程の価値あるものだ。全て森田講師の手作りの資料になる。これに掛かった時間と労力を工賃で計算したら全くの持ち出しになる。つまり僕ら参加者は膨大な贈与を受けていることになる。

枚田治左ヱ門敷園
最初の出会いは五年ほど前になるか。関東から但馬に移って、兎に角地域を理解することからしか地元に馴染めないと、地元山東町誌に目を通したりしたが、もっと深く理解したい衝動に駆られ、これはもう地域の無意識が固まったころまで遡ろうと思い立ち、地元の古文書教室に通うことにした。

そこで気付いたことは、一つの古文書からその時代背景をどう読み解くかということと、その文書が持つ当時の意味と現在の意味になる。これは読み手の資質と思想が大きく影響する。そこが森田講師の並外れて秀でたところで、その辺の大学教授など足元にも遠く及ばない。
 そんな講座に出たらもう古文書など読めなくても、通説や常識を寄せ付けない森田講師の深い時代背景の状況分析、そしてその解釈へのぶれない勇気とオリジナリティーに感動し、その論説と真実への強い意志に感染するしかない。

但馬......祥雲寺/法花寺
ということで、この四月に院を終えて森田古文書講座を再受講し再感染し、前々から構想していた、師の資料と解釈の電子化を決めた。
取得したドメインは師と相談して決めた kitakinki-komonjo.com

何故「北近畿」としたかというと、師は但馬だけではなく、お隣の福知山(旧丹波)、京丹後、そして現在の丹波市の古文書に関わっているため。

未だ Top Page しか出来ていない。何しろ師の所蔵している資料や論述が余りにも膨大で、当初どこから手を付けていいものやら難儀した。結局、当面関われる人材が余りにも少ないので(過疎地のネック)歴史上重要と思われる資料から順次アップすることにした(取りあえずすべての資料の電子化は断念)

但馬........白井( photo by Fukumoto)
簡単に純粋贈与とかいうが、中身は想像を絶するほどの労を要する。例えば、文書テキスト一枚でも原文のコピーをとり、さらにそこから必要枚数をコピーするといった単純な作業を繰り返すことで僕らに資料が配られる。それだけでも年間の講座受講料を優に超えるだろう。

僕自身、こんな誰でもができる単純作業に師の貴重な時間を使わせるのは物凄く気が引ける。他にやらなければならないことが山ほどある身だ。おまけに御年80歳になられる。なので知り合いの新聞記者にお願いしてサポートして頂くボランティアを集うインフォメーションをお願いしようかとも考えている。

但馬........金浦( photo by Fukumoto)
時々、師と話していて余りにも沢山のことを抱え込んでいるので、120歳まで生きれるとお考えなのか?と意地悪な勘繰りをしたりしている。教室の他にも「但馬史研究会」にも所属し、郷土史研究というグループで、主に北近畿一帯の古刹や歴史上重要だとお考えの史跡を巡る企画を計ったり、そのためのバスをチャーターしたり、そして、その広報紙まで自前で用意なさっている。

 先日も「溜まり積もった資料を整理しなきゃならんのや」と仰るので、「先生は、忙し過ぎて、そんな時間お持ちでないでしょ!」と突っ込んだら「そうなんや;;」と笑って応えておられた。

「先生ね、お持ちの膨大な資料は、もちろん先生ご自身の労によって蒐集されたものなので先生ご自身のものであることは確かですけど、同時に重要な地域資源でもあるのですよ!」と繰り返し突っ込んだら「…・・‥」。。そう、余りにも膨大な資料は、それこそ大学の学生50人ほど手分けして掛からなければ到底区分け等できない。

但馬.........「朝露」( photo by Fukumoto)
資料は 、USB に保存してPCにも残していないと仰る。僕には、この意味が分からない。兎に角、全ての資料を一旦 WEB に上げちゃいましょう!と伝えても、整理されていないので上げてもしょうがないと繰り返すのですが「整理は時間的にも人材的にも無理です。後に遺された人達に任せましょう!」........... 今一つ納得されていない。気持ちは良く分かる。でも総合的に考えて不可能なのだ、全ての資料を整理するのは。

結局、最も重要だと思われる資料から現代語訳と、その解釈を添えて先ずは kitakinki-komonjo.com にアップすることで合意。

師は、晴れた日は百姓を日課にしておられるようだ。古文書の解釈の視座も百姓の視点からのもの。「農」を深く愛しているように感じる。柳田を意識しておられるかは未だ聞いたことがないので分からないが、常民の視座に近いものがそこにはある。

但馬........白井( photo by Fukumoto)
師のどこに惹かれるのかって、それはどんなに自分らに都合が悪いことでもそれが真実なら絶対に目を背けないその姿勢にある。ここ但馬は、過去においても、現在においても、歴史の表舞台に出てくるような史実はそう多くはない。それ故、数少ないお国自慢を誇張してしまいがちだ。

例えば缶コーヒー Boss のCMで多少世間に知れた史跡竹田城の築城に関しても、地元では、ウィキペディアにもあるように「竹田城は山名宗全がこの地に城を築くよう命じ、羽柴秀長が新しく縄張りを行い、その後の赤松広秀が文禄のころより豊臣秀吉の支援を受けながら、壮大な城へ仕上げたものと考えられている」と実しやかに語り継がれている。それは、朝来市の数少ない地域資源でもあるので成るべく悪い印象を流布したくない故。

しかし、実際は古文書を読み解いてゆくと、赤松は関ヶ原の戦いでは西軍に属し、田辺城(舞鶴城)を攻めるも、西軍方は敗戦した。田辺城主は家康側の長岡藤孝。このため東軍の盟主であった徳川家康の命によって、慶長5年10月28日(1600年12月3日)赤松は、切腹を命ぜられる。領地の大きさを示す石高は約2万2千石と当時の徳川家康の100分の1以下。なので赤松が今の観光資源になっている見事な山城の石垣を造ったと考えるのには無理がある。こういったことを地元を敵に回しても「地元が言わんでどうするんや」と師は訴える(脱帽)
 
竹田城雲海
 他にもある。ここ但馬では、唯一自慢できる江戸後期においての学府に池田草庵がある。だが、何を学んでいたかというと儒学。もちろん、同時代の課題を深く認識した上での儒学ならば文句はない。ただ、お近くの長州では蘭学を学び近海をうろつく黒船に備える構えはあった。この差は大きい。師はこの貧しさにも辛辣だ。同郷だからといって美化することはない。小気味良いほどだ。

上京のため更新が遅れ失礼しました。

時代背景や前後関係から史実を描くには、少なくとも「常識」を疑う勇気と真実への拘りが必須の条件になる。勿論、様々な歴史観と、その視座は、エピステーメ(全体知≒時代精神)という文化的枠組みに規定される。その意味は、人の判断や行動が、その意志とは無関係に構造的に決まっているということ。

それでも、敢えて同調圧力や農業社会にありがちな「空気を読む」ことに対して抗う師の姿勢と歴史観が、常識を超え出る生産的な幻想性を喚起する。
 網野善彦さんが繰り返し念を押していた「関東と違って関西には古くからの差別問題があるので注意するように......」といったこともこの地では特別なことではなく日常。そういった環境の中で真実を述べてゆくことは想像を超えて難しいことだ。ましてやこの地に育った人間なら尚更。

但馬........金浦( photo by Fukumoto)
ここに来て思うのは、師は様々な古文書が語る史実を探求することが古文書と関わる主旨で、資料として如何に後世に遺すかが主眼ではないということ。なので、僕としては、それをどうサポート出来るかにシフトし、電子化するということを先走って師に遺された貴重な時間を潰してはならないということに最近気づいた。となると、kitakinki-komonjo.com としては、地域にとって、その後の歴史を変える出来事や、地域を超えて日本社会そのものに影響を与えたであろう史実に触れた古文書を師に厳選して頂き、それを多くの文書から絞ってアップしてゆくことになる。どの資料を捨てるかが勝負ということか。

残念なことだが、様々な条件が、どの様に、そして、どの様な「古文書を遺す」のかを限定する。ここは思案のしどころ。師の眼を信頼して取り掛かるしかない。そして、冒頭で取り上げる文書は享保九年の『松岡新右衛門の直訴状』。
 この訴状は、後に続く江戸四大飢饉の一つである享保の大飢饉 (享保17年)に先立つこと八年前、旱が続く但馬の百姓の惨状を命懸けで自身の流罪と引き換えに幕府に直訴した時の文書。結果、但馬には安石代(年貢が半値に改定)がひかれ百姓の生活は守られたものの松岡自身は八丈島に流され、但馬に戻ることは生涯なかった。

但馬.........「ネコジャラシと朝露」( photo by Fukumoto)
 さて kitakinki-komonjo.com のスタートは一向にきれず(師からの巻頭のコメントが忙し過ぎて間に合わない;;)元々焦ったところで仕方がないので、のんびりやろうと決めていたのでいいのですが…・・。師は、未開拓の古文書の解読が優先順位のトップの様で、何かそこも凄いな~と感心している今日この頃です。

今週の教室でも、通説などに全くぶれない師の解釈に Uhuu--n と唸ってしまいました。

僕の住む地域は、海を喚起する地名に溢れている。磯部、鯨峠、そして塩田。しかし、師は全ての地名は、隆起などで陸地となり元海だったとする通説など何の根拠もなく「磯部」は、里に近い山の裾の少し上で水害などがない地形を指すということ。なので神社仏閣が建てられたところという。

白川静の「字統」によれば、磯とは岩や石が水の中でごろごろしているという意とある。そして、鯨峠の「鯨」とは、小山と小山の間にあるなだらかな丘陵が鯨の形に似ているところから来ていると説く。成る程、ならば「塩田」という地名も潮の香りがするのですが如何でしょうかと尋ねたところ、「塩」は元は「潮」で、潮田を指し、詰まり、豊岡市の六方田圃の様な「じゅるい(この地の方言でぐじゃぐじゃした湿地帯をいう)」田圃を言っていたはずだと。成る程と合点しました。昔の百姓は、それこそ飢饉の時は田を質に入れたりせざるを得ない厳しい状況にあった訳で、その際、潮田では売れないので、塩田に改名したのではと推測できます。以前、逗子に住まいを設ける際、色々な適地を探しました。千葉に大多喜町というところがありましたが、注意深く調べますと元は「大滝町」で良く水害が出た地名のところ、後にイメージを良くするために(不動産としての価値に左右する為?)大多喜に改名ということでしたので、塩田も潮田だったとする森田先生の解説は見事だなと。

ということで、長くなりました。kitakinki-komonjo.com 今暫くお待ちください。