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暑中見舞い申し上げます。


この7月24日より、2018年度の金沢クラフトビジネス機構「商品開発」特別講座のため金沢へ。

思っていたほど北陸金沢は熱くはなかった。というか山陰の蒸し暑さのノリでハーフパンツといった軽装で…これが失敗、冷房病になった;;

今回は、この春に新メンバーを加えた顔見せ後、実質初回となる。

本年度から事前に当該地で参加者が自主的に集まり、リーダーの元卯辰山工芸工房専門員酒井直樹さんの下、三回のミーティング。そのレジメに目を通すと概ね以下↓の様な話し込みがあった。

■本→どんな本がよいか先生方にもお伺いを
→絵本や雑誌、多種多様なので、本ではなく、テーマとなる「言葉」を元に、連想する本であったり絵本や歌を選ぶ。その選んだ内容物も展示の際に陳列する
■組み合わせ→コラボ・モノのしつらえ・思考・人
→作るものを見せ合い、意見交換を早い段階で行う。その後作品のコラボの提案、可能性をメンバー間で意見を出し合う。

■売
→先生方とも相談し、様式を形にしていく

■展示の方向性→個人ベース/その他
→必要に応じて、個人、コラボ等自由な構成で
■テーマ
→次回に詳細を詰める
■オブジェ
→自由な発想で制作をする意味では、可能


次回会議までの課題
1 企画趣旨となる共通ワードを決める
2 今回の展示を理論化・言語化し整理する
3 企画趣旨を早めに文章化し出展者で共有する。その際ある程度のディレクションをメンバー間で行い、ブラッシュアップを図る。
4 今回の企画で何を表現するのか少し明快にする


こういった流れから事前に出されたキーワードは以下↓。

①「明」を基盤とするワード
吉日・天晴(あっぱれ)・華やぐ心

②「具体性」を基盤とするワード
色遊び

③「言葉」を基盤とするワード
言ノ葉

④「自然」を基盤とするワード
空模様・海に潜る

僕の印象は「ベタだなぁ」でした。

「明」があって「暗」がない。「自然」があって「人為(第二の自然」)がない。健全さしかない不健全。観たいものしか見ない、観たくないものは見ないネット社会の負の振る舞いを見たように感じました。つまり、時代の「公傷」を受けていないところからのアプローチじゃ「今」を表現できないということ。平たく言えば、好いとこどりは出来ねーぞということです。

でも、細かく見てゆくと........
人・映画・時・曲・食…基本金沢を意識するが、今までと違うアプローチを捻出
といった意見もあったので具体的な事例に置き換えて質問してみた。
人・映画・時・曲・食…というフレーズから彼らの無意識に迫ってみる。

話のフックとしては、「時間」意識としてのアニメ『君の名は』を振ってみると…

… ビビットな反応がないので、特に考えていなそう。。

でも、後で出てきますが「記憶」といったフレーズが、彼らの無意識に漂っているのは確かなので、ものはついでということで、僕の時間意識や映画の中で描かれてきた「時間」について(videonews.comの「映画は『時間』をどう描いて来たのか」を下敷きにして)語ることで、不鮮明だった彼らの時間意識を炙り出せるのではと仄かな期待を…

先ず、比較的記憶に新しいネタで一昨年評判になった新海誠監督によるアニメーション映画『君の名は』の時間表現について。この感想は、宮台真司と同じで「アニメ版『時をかける少女』で十分じゃん」、つまり、「過去」に悲劇の起きたある時点に遡って、そこを描き替え、なかったことにし、「今」そして「未来」を悲劇から回避させるという設定のこと。今更この時間意識を反復して表現する必要ないじゃん…ということす。退行ですね。
・メッセージ(2017年アメリカ)
・彷徨える河(2015年コロンビア、ベネズエラ、アルゼンチン)
・龍の歯医者(2014年日本)

・魔法少女まどか☆マギカ(2011年日本

これらは、videonews.comの「映画は『時間』をどう描いて来たのか」で紹介された作品で、僕自身が実際に鑑賞した作品。宮台真司曰く、すべて過去の悲劇を描き替えることなく、例え未来に不幸が待っていようと、その過去を受け入れて未来を受容する(これを受動的能動性というそうだ)といった時間意識。これが現在最先端の時間意識だという。

僕の感想は、宮台とは少し違っていて、1989年公開のアメリカ合衆国の映画『フィールド・オブ・ドリームス』(Field of Dreams)では、既に過去を将来の理想(夢)に向かって描き替えることなく雄々しく受容する感動的なシーンがある(他界=過去から、こちら側<現在>に入ることでメジャーリーガーになれる夢が絶たれても人命を救助することを選択する医者)。凡そ30年前の映画だ。その意味で上記した映画は、決して新しいコンセプトではない。

Field of Dreams
ただ、問題の本質はそこではない。受講者の何人かが興味を示した「記憶」だが、無限に堆積した過去の自分の時間の中で、記憶として今から遡って遡行できる、あるいは遡行を志向する時間意識とは何か…。

また、『Field of Dreams』や『となりのトトロ』で、子供や一部の大人が現世の制度化された視線の外にある、かつて皆が持っていたであろう原始感覚の様な視覚を失わずに持つことの意味とは何だろう。犬や子供には猫バスは見えているし、子供や過去に取り戻さなければならない事象(傷)を色濃く持つ大人には、そうでない大人には見えないものが見えるという設定。















そして、『千と千尋の神隠し』にある「振り返ってはならない過去」。この物語の設定は、遥か昔から普遍的に人類がもつ時間意識になる。

過去の記憶を描き替えるということより、拾い直すといった方が良いような退行性のもつ意味とは。

脳科学的に言うと、短期の記憶中枢は海馬(PCでいうとメモリー)、すなわち側頭葉の古皮質にあり、長期の記憶は大脳新皮質(PCでいうとHDDやSSD)で、連合野という部分にあたる。そして、過去の記憶の一切合切は、引き出せないことはあっても、ほゞ失うことはないとも言われる。その中で、ある一連の時間の幅に拘りを持つとは何を意味するのだろう…。

柳田 國男
ここで扱ってきた「時間意識」だが、実はこのことは、他界と現世との行き来を意味することでもある。今回の講座で参加者が提案した「ハレとケ」は、柳田國男が深めた日本人の伝統的な時間論になるが、今の人の様に死と生を峻別して特に生のみを際立たせ、まるで死がないかのように振る舞う世界観とは凡そ異なる。

春の花見や夏の盆の様に、季節の中で他界から死者は訪れ、現生の人々に酒やご馳走をもって祭られた後、他界へと還ってゆく訳だが、そこには死と生を等価なものとする精神性がある。そして、ひとびとは他界との交信によって次元の違うエネルギーを授かることになる。

こういった思考に至った柳田が意図したことは、近代化の中で失った日本人の精神性を取り戻すことだった訳だが、主に前近代まで保存されていたであろう日本人の魂を特定したかったに違いない。柳田は、歴史というものを天皇や為政者の物語ではなく、極々一般の庶民(常民)が織りなす物語として編纂し直すといった狙いがあり、そこが柳田の思想の次元を上げているところに間違いはない。

ただ、ここで厄介なのは、日本古来からこの地にあったとされる原始宗教や神道、そして、新興宗教として入って来た仏教が混じり合って、日本人の精神的古層がどこなのか判然としないことだった。
 
折口信夫
柳田が「内」へ「内」へと志向することで「日本人の起源」に行き着こうと意図した のに対して、「外」へ「外」へと志向したのが折口信夫になる。

今では一般的になった DNT 鑑定によると、約10万年前人類がアフリカ大陸に誕生した後世界に拡散し、日本に辿り着いたことまでは分かっている。折口は、この DNA 鑑定の技術を人類が手に入れる前に、並外れた鋭い直感で、我々日本人の祖先が「外」からやって来たとイメージした。それは僕らの身の回りに無限に散在している事象を、彼のいう「類化性能」(=アナロジー)によって全く別次元のもの同士の共通性を見出し、それまで見えていなかった(=存在していなかった)ものをありありと創生してみせた訳だ。

これは、今流の言い方でいうと「脱構築(=脱制度化)」にあたり、先に触れた❝猫バスが視える❞ことの中身になる。別の例えをすると異種混交(=ハイブリット)、あるいはコラボレーションと言い換えてもいい。

.......wrote by Kuroki 
「ハレ」とは、折口によれば、神やそれに準ずる死者(=まれびと)が他界(「外」)からやって来るのを祭る儀式ということになる。そして、僕ら工芸家に引き付けていうと、このハレを演出する空間や様々な備品を生み出す、嘗ては神事の一端を担った工人が今でいう工芸家(昔の職人)にあたる。ただし、神に近いということは、時代が変わるといつでも差別階級に転落するということでもある。

折口は、芸能や職能集団も、元は神事に深く関わる人々としている。しかし、時代が下るにつれ社寺から離れ流浪する芸人に落ち、歳時に合わせて表に出て唱えごとを振れ回り物乞いをする乞食となったとも伝えている。
僕ら工芸に関することでいうと、木地屋なども統括する神社仏閣(近江国筒井八幡及び大皇大明神)があり、木地師は氏子となって大方この二大神社に帰属していたという。その後、全国に散らばり木地が手に入りやすい山間地に入り、温泉場の土産物などを手掛けながら木地を挽いていたという。今では最もメジャーな木地師の郷である石川県山中などはこの典型か。

図にあるように、轆轤を発明したとされる惟喬親王を中心に据えた掛け図を諸国の木地師が所持していたとされる。この様に、轆轤を挽くということは神事に近い営為であった。こういった職人も、時代が下れば山奥に住む山人同様被差別民とされていったのであろう。
 
 さて、講座から大分離れてしまった。「ハレとケ」ひとつとっても、その出自は今日遠く霞んで見え辛くなっている。そういった歴史の厚みを踏まえて今日の「ハレとケ」を表現へと繋げたいものだ。

本当は、折口信夫のいう「まれびと」=「日本的霊性」から金沢にゆかりのある鈴木大拙に繋げたかったところですが、長くなりましたので、次の機会に回したいと思います。

では、では。