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あの雨の中、銀座の金沢「椀と碗・その景色」オープニングにいらして下さった皆様、本当にありがとうございました。

そして、日曜日しか来れないということで台風にもめげず銀座までいらして下さったKご夫妻、誠~にありがとうございました(その日の朝、僕は画廊に顔を出すのを止めようかと思いました;;;、お会いできてよかったです)。感謝。



展覧会最終日は6日です。
銀座  やはりいいですねぇ。銀座はいつでも銀座です(訳分からん;;)

銀座でしか味わえない「何か」が銀座にはあるのです。そう、「銀座」という名のごとく、江戸では銀貨が製造されていたところです。そんじゃ、金座は…今の日本銀行です。

中沢新一の「アース・ダイバー」によると、金融・宝飾・美術・広告・宣伝・水商売の地は、あの世つまり死の世界につながっているということ。まさしく銀座のこと。ひとは「生」のみで生きている訳でも、生きられる訳でもなく、「死」とセットで生活しているというのが実相です。

昭和初期の銀座
展覧会が済んで今振り返ると、僕が四十年近く作家活動を続ける中で、お世話になった画廊のオーナーや関係者の方々ほぼ全員が、オープニングにいらして下さったことに気付いて驚いています。これは、本当にありがたいことだなぁと。。

皆さん良い感じに年を重ねた風で何よりでした。僕が初めて個展をもった工雅(今ではビル拡張のためクローズ)のお姉さんもいらして下さり僕の年を聴いて、えーって驚いていましたが、その分ご自分も年を重ねていらっしゃるのですが。。
 昔お世話になった石川県は山中の轆轤研究所の重鎮だった方が亡くなった、というお話に時を感じました。

でも人生百年の時代なので、僕は未だ未だだと本気で思っています。そして、来年も引き続き金沢での講座を持つ流れなので、次回はもう少し遊び心のある、銀座に飲み込まれない、それでいて時代を忖度しない作品を皆さんに期待していますし、そうなるような講義を今から構想しています。

ゴジラが出てきそう............
「富士銀行」「山一證券」「アメリカ屋靴店」etc  上の画像(恐らく昭和30年代初めころ?)をみると、市場から撤退して既に残っていない企業もみられます。企業の平均寿命は30年と言われるので、目を凝らせてみるともっと多くのお店がなくなっているのでしょう。sony も元気はありませんねぇ。  

その意味で「時代を読む」ことは重要ですが、「時代を忖度する」のは創造性の芽を摘みます。自分で頓珍漢にセーブしてしまうというか。

何を言いたいのかといいますと、今回の講座でも伝えましたが「生活工芸」なるものが一部マスコミで、ある意味トレンドとしてもてはやされているといった空気がありますが、それは疑った方が良いということ。また、今回の受講者にとって、銀座の金沢「椀と碗・その景色」というテーマは抽象的で制作し辛かったような気もします。そして、銀座の金沢での実績を見ると「生活工芸」的なるものは、ほぼ評価を受けていないことが分かります。

本物志向といわれて久しいですが、機能性を保持した質のいいものは、百均で揃うという時代です。現にお客様で「この程度の質の椀なら百均で揃う」と辛辣な指摘もあったようで、一万円を超える作品を制作するなら、価格に見合う客が見て納得する内容をもっていなければプロとは言えません。
 
明治期の銀座
  工芸、特に伝統に立脚した工芸を旨として制作を続けるとしたら、それなりのクウォリティーをもったものを作らなければ、魅力あるものに溢れる昨今の市場では、買い手は納得しないし椀ひとつでも手に取ることもないでしょう。

そして、「銀座」とは何かを自分の中で押さえた上で制作・展示しなければ、全く銀座という特殊な空間に作品が呑み込まれて沈んでしまうので注意です。自分らしいものを作ることは重要ですが、それをどういった場を想定して作るのか、どういった人々に向けて作るのかは自覚的でなければなりません。

次年度は、その辺をきちっと押さえて制作に励んで欲しいと願っています。
 

江戸期の銀座
  江戸期の銀座(TOKYO GINZA OFFFCIAL より)

「銀座」の地名は、江戸時代の「銀座役所」に由来します。1603年に江戸幕府をひらいた徳川家康は、駿府にあった銀貨鋳造所を現在の銀座2丁目に移しました。その場所の正式な町名は新両替町でしたが、通称として「銀座」と呼ばれるようになったのです。

ところで、「銀座は海の中だった」と言う方がありますが、江戸以前の銀座周辺は完全に海の中であったわけではありません。銀座は江戸前島という、東京湾に大きく突き出した半島の先端部の低湿地帯であったと考えられています。それらの低湿地帯と日比谷入江、築地方面を埋め立てることから、江戸のまちづくりは始まったのです。
さて、「銀座」という座組織は幕府のために銀貨をつくる組織で、銀の買い入れや銀の管理、事務を取り扱う役所と、銀貨の鋳造を行う工場とがありました。ちなみに金を扱う金座は日本橋の、現在の日本銀行本店のところにありました。

「銀座」は銀を特権的に扱うため、相当な利益があり、「銀座」役人の羽振りは相当良かったようです。しかしいくつもの不正事件をおこし、1800年(寛政12年)、「銀座」は日本橋蠣殻町に移転させられてしまいます。しかし銀座という通称だけは残ったのでした。
その他にも、銀座には「朱座」(朱を扱う)、「大判座」(幕府から特権を受けて贈答用の金貨を鋳造する)、「分銅座」(計量用の秤に用いる標準のおもりを制作、販売した。また貨幣をつくるための金銀塊はこの形で貯蔵された)などがありました。ちなみに大正期にできた銀座通連合会のロゴマークには、8つの分銅があしらわれています。

銀座は主に職人たちの住む町でしたが、尾張町周辺はたいへんなにぎわいを見せました。現在の銀座通りとみゆき通りの交差点には、恵比須屋、亀屋、布袋屋といった呉服店が軒を並べ、日本橋の三井越後屋に匹敵する商売繁盛ぶりだったといいます。
また、銀座には観世、金春、金剛の能役者たちの拝領屋敷がありました。周囲には関係者たちが居を構えました。金春流の師匠たちが、のちに金春芸者となり、現在の新橋芸者たちの基となりました。さらに木挽町地域には芝居小屋が建ち並んでいました。狩野画塾があったことも有名です。京橋川沿いには青物市場と竹河岸(建築資材としての竹を売買する)があり活気がありました。

このように、銀座は日本橋を起点とする東海道の一部でもある銀座通りに大きな商店がにぎわいをみせ、取り囲む川で活発な舟運流通が行われる一方、裏手に職人町がひろがり、能役者や歌舞伎役者、常盤津の師匠、画家たちの住む町でもあったのです。
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