生野銀山
先週の連休明け、前々から訪ねたかった「生野銀山」へ出掛けた。僕のところから一般道を使っても一時間掛からずに着く。正直言って大して期待はしていませんでした。。


ところがです、どうしてどうしてこれが素晴らしいのです。鉱山探訪が初めてということもあって、特にあまり整備されていない江戸期の露天掘跡に目を奪われました。


日本は、木の文化に馴染んでいるからでしょうか、堅い岩を石鑿で穿った痕を見つけると「さぞ大変だったろうな~」と、当時の工人達の厳しい作業が想起されて思わず息をのんで凝視してしまいます。
 
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江戸期の落書痕.............「南無阿弥陀仏+仏像?」と案内してありますが・・・・・
実は、露天堀を見る前に全長300㎞を超えるという近代鉱山の遺構を見学したのですが、真夏にも拘らず坑内が13℃。夏休みで親子連れで見学に来ていた小学生が「お母さん寒いよ~~;;;」とべそをかいていました。この日は、野外32℃以上はあったのでその落差にびっくりです。露天堀を観た後で汗だくになり、暫し鉱山入り口の冷気にあたって涼をとりました。

南無阿弥陀仏・・・










「江戸期の落書」











(法隆寺金堂天井板の落書)
古文書教室に通う方で、生野銀山や神子畑鉱山に勤務なさっていたという長老にお聞きしたのですが、江戸期の抗夫の平均寿命は二十歳位ということでした。それは、既に8~9歳で坑内に入り労務に服し始め、18~19歳でほとんどの抗夫は坑内の塵埃で肺を病んで命を落としていたということでした。なので、ベテランの抗夫はみな血気盛んな若者だったわけです。



上 ↑ の画像は、野外の露天堀に続く順路の入口近くに案内掲示されていた、岩肌に遺された江戸期の落書です。「南無阿弥陀仏・・・・と仏像?か。」と解説されていましたが・・・・違うでしょう。これは明らかに以前続々・明日香・斑鳩で詳解した法隆寺金堂天井板裏の落書と同じ部類のそれだと思います。



辛い作業であればあるほど、いつの世も若者は落書で凌いできました。今も昔も変わりません。

法隆寺金堂天井板裏の落書ですが、アップした当時何と一日に20000件以上のアクセスがあったのです。今でもこのページは毎週ベスト5内にランキングを続けておりますです、はい;;何かほっこりする事件です♪
暑いです;;

ちょっとブレイク。

好い動画見つけました。以下↓篤とご覧あれ。。
生野銀山に戻ります。


さて、地中から噴出した鉱脈が地表に現れた部分を露頭といい、↓の画像は、銀の鉱石を掘り出した跡です。昔はこの露頭を探し当て、そこから地中へ掘り進んで採掘しました。 今でも銀は採掘されますが、純度が低いため採算が合わず閉山となっています。

ちょいと掘れば金銀が出て来そうです。。


生野銀山最大の鉱脈で、発見されたのは室町時代末期の永禄十年(1567年)頃とされています。江戸の末期までの300年間休むことなく採掘され、地下200mまで達しているそうです。

奈良の大仏の建造時はここからの銅を献上し、大阪城の建城にも財政的に大きな貢献を果たしたようです。信長を始め秀吉も、この銀山を直轄領とし、その財政基盤を整えたといいます。

室町年間に本格的な採掘が始まり、戦国英傑、信長・秀吉・家康の直轄地に。

生野銀山は大同2年(807年)に銀が出たと伝えられる。室町年間の天文11年(1542年)には但馬守護職・山名祐豊(すけとよ)が銀石を掘り出し、開坑の起源といわれている。永禄10年(1567年)には自然銀を多く含む日本最大の鉱脈(慶寿ひ)が見つかる(銀山旧記には、“銀の出ること土砂のごし”と記されている)。

その後、織田信長・豊臣秀吉の直轄時代を経て、慶長5年(1600年)徳川家康は、但馬金銀山奉行を配置、佐渡金山、石見(いわみ)銀山と並び天領として徳川幕府の財政を支えてきた。

享保元年(1716年)には「生野代官所」が置かれ、やがて生野銀山は第八代将軍・吉宗の頃に最盛期を迎え、月産150貫(約562kg)の銀を産出した。

明治元年(1868年)には日本初の官営鉱山(政府直轄)となった。明治政府は近代化を推し進めるため、「お雇い外国人第1号」のフランス人技師ジャン・フランソワ・コワニエを鉱山師兼鉱学教師として雇い、コワニエが帰国するまでの10年の間に、製鉱所(精錬所)を建設し、生野に日本の近代化鉱業の模範鉱山・製鉱所の確立をめざした。


金香瀬旧露頭群跡(慶寿ひ)
生野銀山ですが、訪ねてみるとその歴史的な意味合いの濃さに驚かされます。竹田城跡もそうですが、いまひとつ知名度がないのは、どちらも首都圏から距離が遠く観光化が難しいということと、本来観光を旨として生まれた訳ではないので、歴史的な重要さを地元住民も自治体も気付いていないということがあります。

そういった経緯から観光地としての整備がほとんどされていません。特に生野銀山の露天堀は、放置されているといってもいいくらい宝の持ち腐り状態で残念です。

辰巳坑口(徳川時代)







先日、生野銀山にお勤めしていたという古文書教室でご一緒している長老の誘いで、お隣京丹後の「丹後郷土資料館」でのシンポジューム「弥生大型墳丘墓の出現」を受講しに出掛けた。入館も無料で受講も無料と言う太っ腹。ところが、この内容が予想を超えて濃く深いのです。レジメも丁寧で詳細。地方ってこんなにも文化的に豊かだったんだ・・・と驚きました。

その内容は、いつの世も経済文化の中心地は、当然都の依拠する場所と並んで、そこへの物流を支えるアクセスの仕方、つまり陸路あるいは海路に規定されるということ。なのでそのルートが陸路から海路へ移った途端、物流がなくなり人の出入りもなくなりゴーストタウン化する。それは今も昔も変わらない。

但馬も丹後も古墳前期までは、日本海を挟んで朝鮮半島からの物流の経路だったため、多くの墳丘墓が造営され高価な埋蔵品も納められたが、瀬戸内海海路が整った2世紀後半からは、但馬丹後はスルーされ、この時期からの墳丘墓からの埋蔵品は貧しいものに変ってゆく。

今で言えば、高速が開通したり、鉄道が敷設されたりすると、その物流が大きく変わり、それまで栄えていた地域が全く寂れてしまったりすることはよく見る風景だ。

東京は、今の日本の中心地なので関東で長く過ごした僕には、近畿・中国地方はもの凄くローカルで遠い辺境でしかなかった。しかし、歴史を遡ってみると裏日本が経済文化の中心だったので、歴史的に貴重な遺物が数多く遺っている。

丹後銚子山古墳
そう、生野銀山でした。。



遺構内は、昭和48年(1973年)まで稼働していたので、そこから遡って明治期までの機材であったり掘削跡だったりの展示が圧倒的に多い。でも、江戸期まで続けられていたという、幅60cm高さ80cmほどの人が這ってやっと入れるような穴を、鉱脈に沿って掘り続ける「狸堀」の跡が僅かに何か所か残されている。さぞ過酷だったろうな~と楽に想像できる。



黒船の来航によって近代化に舵を切った日本は、全てが市場原理で動く資本主義化へまっしぐらと突き進んでゆく訳だが、そうなると鉱石そのものの精製コストが優先順位のトップに立つ。資本主義はグローバル化の別名というか、セットで拡張して行くものなので、日本の鉱山の様に鉱脈を辿って左右上下に掘り進む抗法は、掘削せずに露天堀だけで容易く純度の高い鉱石を産出する他国に太刀打ち出来ず閉山とならざるを得ない。ということは、今でもこの銀山に鉱石は沢山残っている訳だ。何だかもったいない話だ。

「狸 堀」
今「21世紀の資本論」が、日本以外では売れているという・・・・・。信頼出来る識者が皆推すのでダイジェスト版で読むことにした(原本は700ページ近いので途中で放り出しそうでやめました;;)。論旨は至って当たり前の、何の意外性もない事実を多くのデータを基に述べられているものだ。つまり、「富むもの(資本をもつもの)は、それを元手に益々富み、貧しきもの(資本のないもの)は貧しいまま推移するのが資本主義と言うもの」という、何ともベタで身も蓋もない、当たり前で残酷な結論を導いている。



こういった構造の世界に突入する前の前近代の遺構として、生野銀山もしっかりと遺してゆくべきだと「21世紀の資本論」を読みながら気付かされました。

本当は、錫もたくさん産出していたという、この生野銀山の錫を使って作品を作りたかったのですが、今では手に入らずとても残念です。

坑内.........水の汲み出し作業







ということで、何となくこの地に馴染んできて生活も朝方になりつつあります。

そして、日も短くなり始めました。といっても関東より日没は遅いので、夕刻ボールを蹴りに出掛ける僕としては助かります(W-CUP 期間中「自分が出たら予選突破できたな」とご近所の犬の散歩をしていた爺さんに褒められました♪)。


去年の今頃は、酷暑の中相当頑張っていたので今年の夏はさほど暑く感じません。でも、油断は禁物。


みなさまにおかれましても、くれぐれも御身体には留意なさいますよう。。


遅れましたが、暑中お見舞い申し上げます。



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