二十四節気によると雪から雨に変わる今頃から啓蟄までを「雨水」と呼ぶそうですが、それも名ばかりで、こちらは未だ未だ雪も積もりそうな気配。


でもご近所の残雪は、久し振りの晴天の陽光を受け文字通り眩しいくらい美しい。写真で、この日射しの反射の強さとコントラストの妙を残すのは難しい。ちょっとやってみます。。
 
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偏光PLフィルターを使わない方が、雪への日射しのニュアンスが画像に残しやすい。
この画像の向こう側(裏側?)から強い光が射し込んでいる・・・・・とイメージして眺めて下さい・・・・って言っちゃ、腕が悪いのがばれちゃいますね。。実相は、サングラスを掛けないと眼を悪くするほど眩しく真っ白な世界で、光がキラキラ輝いている呈です。
雪景色は「一面銀世界」と呼ばれるように僕らの目にはメタリックに映るのですが、写真に撮ると基本モノクロに限りなく近付いてしまいます。本来雪は、純白な色も然ることながら、その質に特性があるので、そこを捉えるのはとても難しいところです。どこかに「色」をもってきて白を際立たせるしかないのかも知れません。
「常滑レポート」でお馴染みの晴鳶堂こと中野さんも、常時ポケットに携帯していため、コンデジのレンズにホコリが入り込み、おまけにモニターにひびが入ったということで、遂に1200mmの望遠が利くデジカメを新調したとのこと。

画素数の高さを追い続けてきたデジカメ市場は、一時期デジカメの進化は既に打ち止めでは・・・と言われていましたが、どっこいこのところのデジカメ市場は停滞なく進化しているようです。


僕がこの http://urushi-art.net を始めた時を同じくしてデジカメが生まれました。なので17年以上も前・・・・ということになりますが、つい昨日のようです。

僕が初めて手にしたデジカメは、当時驚異の200万画素で CASIO QV2000 でした。他社が10万円近くしたところに5万円台のF2.0のレンズを搭載して登場。F2.0のレンズは今のコンデジには絶対搭載されない高性能レンズ。今みたいに手ぶれ補正する必要のないくらい明るいレンズでした。

当時、デジカメは35mmの銀塩カメラの解像度に匹敵するまでに十年掛かると言われていましたが、あっさり二年ほどで500万画素、つまり35mmの銀塩カメラとほぼ同じ解像度に到達しました。その陰で、町の現像屋さんは軒並み店を閉じ、最高水準にまで達していたフィルム会社はすべて撤退を余儀なくされ、デジカメはカメラではない・・・といっていたプロも何処へ行ったやら。。。

神武寺の岩肌...................FIRST SHOT
初めて手にしたデジカメで撮った画像がちょっと見つからず残念ですが、同じ頃に撮った画像がです。    
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佃島リバーサイド21............... by CASIO QV2000
CASIO QV2000 は十年近く使い続けましたが、流石にバッテリーのもちが悪く引退願いましたが、多分未だしっかり作動するのでは・・・・・。

デジカメの登場は、写真の世界を一変しました。何しろカメラと現像所を一緒に所有することと同じ状況を作り出したのですから。正しく革命でした。そして、このマシンを日本が生み出したことは見事で鼻が高いです。

葉山「日蔭茶屋」................ by MINOLTA D7
写真を一つ一つアップするのも面倒なのでスライドショーを埋め込もうとして失敗;;しばらくお待ちください。


ちょっと、ここでブレイク。。


先日TBSラジオの「荻上チキ Session-22」(リンクを張っておきますので是非どうぞ)をオンデマンドで聴いていたところ、「青春マンガの鬼才に迫る」と題して押見修造をゲストに迎えていた。

”押見修造”・・・・初めて聞く名だ。なかなか面白そうなので Amazon で検索し古本を15冊ほど手に入れた。・・・・と言っても1円からありますから安くて助かります。同時に、この分だと電子書籍は古本が出せないので今後難しいかな~と凹む。。

『漂流ネットカフェ』を寝床で半分まで読み、途中で放り出す。ちょっと設定に無理があって読めん!


昨晩寝床で、あと十冊以上あんだよな~。。と憂鬱になったが、もったいないので『惡の華』を風邪気味を押して本を開く・・・・。

心理描写にリアリティーねーよな~っ・・・・と思いつつも”仲村さん”のキャラに惹きつけられて遂に十巻全て読んでしまった(多分読み切ったのは朝4時ごろ?)。

思春期のリビドーの無軌道な表出としての様々なシュチエーションやリアクションに納得できないで突っ込みを入れつつも”仲村さん”のキャラがあまりにも謎めいて魅力的なので、彼女の登場だけで他の細かな矛盾は結局どうでもよくなってしまった。
    
思春期には誰でも「夜の校舎、窓ガラス壊してまわる」権利がある。そして、「授業をさぼって・・・・屋上でタバコを吸う」権利もある。


『惡の華』を面白く読んだので荻上チキ一押しの『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』を期待をもって読んだがこれはスカ。

主人公を女の子に設定しないと通りが悪い世の中なのは確かだが、この「吃音」は、男の子がほぼ独占する世界と言っていい。まっ僕ら男は『できそこないの男たち』なので、乳幼児期は母子分離不安は女の子より圧倒的に強く生まれ言葉の出も遅い。心も身体も脆弱に生れ落ちる。


僕が浪人中ガソリンスタンドでアルバイトをしていた時、同じ職場に可成りひどい(今までにあれほどひどいドモリの人間に会ったことはない)吃音の男子がいた。第一音が出るまでに20回ほど同じ言葉を繰り返すのがザラだった。どういうわけかその子に結構慕われていつも「親分・親分」と言って付いて回ってきた(ヤクザじゃねっつーの)。多分この僕に、同じ”何か”をシンパシーとして感じ取ったのだと思う。いつも体を前後に揺らし赤面しながら言葉を出していたので、とても感受性の強い子なのは分かっていた。
 
吃音には「連発型」(ぼぼぼっぼ僕は・・・・と言葉の最初の音を繰り返す)と「難発型」(とにかく最初の音が出てこない=特に母音が出ない)があるようなのですが、彼の場合は気の毒にも両方だった。

 ”親分”は第一音が母音の””なので、管に詰まったボールを吹き出すように、いつも身体を大きく動かして、その勢いで”第一音”を投げ出していた。

吃音は、言語障害には違わないのだけれども単に「喋り」の障害ではないことは確かなのだ。それが証拠に、彼は落語の「寿限無・寿限無」を立て板に水のように誰よりも滑らかに僕らの前で喋って見せた。きっと親が無理解で吃音=言語障害=喋りのスキル・・・・・発声・発音の訓練で治ると誤解して彼に落語のくだりを覚えることを強要させていたのだと思う。

”ドモリ”は「差別用語」それ故「放送禁止用語」だそうだ。そして、この”吃音”は何故発症するかを説明するのは簡単じゃない。僕自身は吉本思想の力を借りてある程度は理解出来る。でも、人に説明するのは難しい。それは言葉の発生の起源にまで遡らなければならないからだ。そして、あの小難しい『言語にとって美とはなにか』や『心的現象論序説』を引っ張り出したら皆ひいてしまう。でも、なぜ「第一音」なのか、なぜ「母音」なのか、そして、なぜそもそも「吃音」するのか・・・・この二大著書はきっちり分析して見せてくれている。


マンガにそれを期待するのは野暮かな。でも、超優れた作家ならそこまで深めてドラマ化できるのでは・・・と期待する自分がいます。ただ、押見修造マンガの核にあるものは一貫して「居場所のなさ」なので、その点は頷けるところが充分にあります。
 
 「吃音」ですが、吉本理論をざっくりいうとこうなります・・・・・・・・(独特の言い回しで超難解なので読みづらいです;;難しいと思った方は飛ばして下さってOKです♪)。


人は、自分を確かなものとして自覚するには<自分はここにいる>ということを<場所>的にとらえうることに根拠をおいている。なので<わたしがいる>ということを根拠づけるには、空間的に<わたしの身体がここに在る>ということを、わたしの意識が<場所>として識知するところに発している。


本当は、もっと小難しく言っていますが、ぶっちゃけ自分がここにいるという空間認識があってこそ人は自分を自覚できる・・・・ということでしょうか。


もし、この意識が無かったり、稀薄だったりすると僕らは”不安”或は”不安定”になります。人の一生涯の中で思春期がちょうどこの領域にあたると思われます。

この不安定な時期に「自分の話していることが果たして”正確に”人に伝わっているのだろうか・・・・」という問いが、特に他人と対面した時リフレインします。


分かり切ったことですが「吃音」とは、心の障害です。そして、この「こころ」という奴が厄介です。

喋るということは、言葉を発音し人に伝えることですから、伝えたいことを音波に変える必要があります。と言うことは、そこに時間が介在することになります。
 
実は、 この「間」に人類が生まれて言葉を発した時から今日に至るまでの堆積がギュッと詰まっていると僕は考えています。普段は意識していませんが、発語することの中身はもの凄く分厚い時間と空間の錯綜とした堆積があります。そこに「第一音」が出ない「母音」が出ない・・・・の問題が横たわっています。


人間が最初に発音したのが、母音”a.i.u.e.o”なのか、子音”ka.ki.ku.ke.ko etc”なのかは未だ確定されていません。ただここで言えるのは、子音を介すると母音がそれに引きずられて自然と出てしまうという事実です。

押見修造さんも言っていますが、吃音者は、この”裏技”(子音から先に言うよう言葉を出す順序を変えると母音がスムースに出てくること)をよく使うそうです。なので言語の発生学的に”子音”が先で、あとから学術的に母音と子音に分解されて母音が理解された…ということになるのかも知れません。この辺は未だ謎です。


因みに、日本語は母音が”a.i.u.e.o”の五つしかありませんが、英語圏では、母音が三十もあるので、そこでの吃音者は、日本語圏よりひどいことになり会話が成立しないので、とても深刻な問題になっているということです。


何だか「雨水」から大分遠くに来てしまいました。本当は、人とその心が時間化度と空間化度の関数で、そこから吃音の構造も精神障害の構造もある程度説明ができるのですが、これ以上立ち入ると何冊分かの書作を書かなければ不十分になるのでこの辺りで止めます。


明日は、先日我が家を訪問してくださった地元の建築家M氏のお誘いを受け、竹田城跡麓の寺で、かつて存在した「竹田塗=栗溜塗」の調査に参加します。この活動は、朝来市教育委員会の調査依頼が重なり文化庁事業として進めています・・・とのことで当日は、教育委員会・姫路書写塗保存会・神戸新聞などが同行とのことで楽しみです。


おしまいに先日の雪景色の残りです。スライドショー設置までしばらくお待ちください(一番下↓にアップする予定です)

では、では。