亡 父  
   
亡父は愛国少年として育った典型的な人であった。大正十五年の生まれだった。西浦第二尋常高等小学校の高等科を卒業して15歳の年に陸軍に志願し、中国大陸に渡って北支・中支を転戦していたのだった。

彼は教育勅語を物神化した時代の教育を受けていた。軍事教練などもあったと言っていた。匍匐前進なんてのは、自分も真似をしたことがある。そして、それらを懐かしむかのように子どもに話すのだった。

 

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 06/05  亡 父
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2005~2017  常滑レポート index

入隊検査で米俵を軽々と担ぐことを評価されて重機関銃の脚をもつ担当であったと。行軍の辛かったことや、人民軍がゲリラ攻撃を仕掛けてきたことなど、僕が子供のころの晩御飯で繰り返しくりかえし話していた。

 

軍歌もよく歌っていた。上官から受けた暴力の話や、偶然会った同郷の誰それが中隊長で美味いものを食べさせてもらったなど、戦争体験も10年以上過ぎると、それなりに懐かしいものになるようであった。

 

上等兵になって、これで上官から殴られずにすむと思ったら敗戦の通知が届いたのだと嘆いていた。軍隊生活の方が実際の戦闘より、はるかに辛そうであったのも印象的だった。そして、なんとか帰国し郷里に戻り兄が務めていた会社で働くことになったのだ。

幼少期に国軍が勝利を重ね領土を拡大し、ヨーロッパでは同盟国のムッソリーニ・ファシスト党やナチス・ドイツが躍進しているとなれば、自分も国のために何かしたいと考えるのは全く自然な展開だったのだと思わずにはいられない。

 
   

製陶会社に勤め、定年退職するまで現場の仕事であった。窯焚きで夜勤だったころが僕の保育園に通っていたころだ。その後も衛生陶器やタイルの製造に関わっていた。家族的な経営で会社は、まるで家のような存在だった。

 

小学校のグランドを借りて運動会があり、健保会館ではザ・ピーナッツが歌っていた。弟が大工の弟子入りをしており、その力を借りて小さな家を実家の畑だった地所に建てたのが僕の生まれるころだ。

 
 

オートバイの後ろに妊婦を乗せて隣の市にしかなかった市民病院まで運んだのだという。ブルーカラーで労働組合にも入っていた。大きな集会で議長を務めたことを自慢げに話していたが、安保闘争などとは無縁だったようだ。家で本を読むということもなかった。

 

白黒テレビが家に来たのは僕が小学校に入る頃か。そして、それからしばらくしてマツダの軽自動車がやってきた。以来、父は軽自動車ばかりで最後は軽トラであった。労働者の味方が社会党であった。

 
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そして、昭和が終わり平成の時代も幕を閉じようとしている。小市民の労働者もいなくなって市民のありかたも複雑極まりない状況にある。こういう状況下でかっこいい勢力が威勢のいい言葉で台頭してくるのが危ないのはわかっている。

おっと、現状がすでにその領域に入っているのかな。道徳教育なんてのを声高に推し進める勢力は、危険極まりない。いずれ我が国は神風の吹く国だと言い出しかねないのだから。