晩秋の夕日に  
   
晩秋の夕日に照る山もみじ


秋はやってきたと思うとすぐに去っていってしまうような季節だ。子供たちが働き出し非常勤暮らしになると、子育て時代が、まるで秋のように短い期間だったように思えてしまう。

冬になると多くの草が成長を止めてくれるので、畑での仕事がガラリと様変わりする。土を触ることが多くなる。そして、今度は根を取り除く事になる。やっぱり草との格闘だ。プロの畑では、こんなことはしていない。土手の草も放置しておいて、頃合をみての除草剤だ。
 
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2005~2016  常滑レポート index
マメ科の雑草は、意外に今頃芽吹いて弱々しく枯れ草の陰に潜んでいる。それを放っておくと春に急速に増殖するのだから恐ろしい。もう手作業ではどうにもならないとあきらめざるを得ない状況を彼ら彼女らは生み出して種を撒き散らしていく。

ムギ科やイネ科も似たようなもので、春から夏に急に増殖していくのであった。せっせと除草していても途中で諦めてしまう。しかし、雑草の根っこの中にはミミズがニョロニョロしていてミミズのウンチは畑の栄養になる。
 
草は草で、乾して燃やして灰として畑に戻せば、それなりに肥料になるのであった。雑草もそれなりに役に立つのだが、商品生産という場所では成り立たない見方ではある。いわゆるアメリカ的な農業は、遺伝子組み換えの植物や、肥育ホルモンを投与した家畜で多量に速成させる方向に向かうのだが、それと真逆の方向を向いている。

知らない間に還暦を過ぎてしまったのだが、子供の頃、日曜日の午後は、父親の挽く大八車を押しながら保育園の坂を登って畑に出かけることがしばしばあった。それは小学校のころだから50年も前のことなのだ。
   
大八車の上には家の便所から父親が汲み取った糞尿を入れた肥桶が乗っていた。そして、収穫物や柴などを入れる藁で編んだ魚籠(びく)や鍬や鎌が乗っていたものだ。刈払器すらなかった時代だ。風呂の焚付に柴や麦藁や、かき集めた松葉などを使っていたのだから時代劇のようだ。

小さな畑が段々に重なる姿は丘陵地で構成されている当地では普通のもので、畑ごとに肥甕が水甕とともに設置されていた。何代にも渡って開墾されてきたものであろう。それらの階段状の小さな畑は、田中角栄の時代に土地改良事業が行われ、農地の集約化が行われた。
 
   

機械を用いた農業の効率化が、80年代農政の目的であったが、時代は専業農家の減少と耕作放棄地の増加、さらに後継者不足という農業離れの深刻な状況に立ち至っている。そして、効率的に美味しく品種改良された米も過剰生産で受給バランスが崩壊してしまっているのも皮肉な結果だ。

いずれ個人農家の協同組合による農業は崩壊し、農業を営む法人が主体とならざるをえない状況が予測される。市場動向を睨んで収益率の高い商品を高値で売れる市場に投入するパターンだ。毎日確実に消費される商品なのだから、けっして悪い事業ではないだろう。

 
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TPPがどのようになるのか読みづらい状況ながら、アメリカの安価な米がより多く入ってくるのは、避けられなくなるように思われる。アメリカやオーストラリアの牛肉がどんどんスーパーに並ぶのも避けがたい。米作は日本の心だ、などという台詞はいずれ無意味となるのだろう。

そんな頃ともなれば、雑草にまみれて草の灰とミミズのウンチと蝸牛やバッタやオケラや時にもぐらも侵入してくる我が家の畑で、ぐんぐん育つ辣韮なども商品となりうるやもしれん、と取らぬ狸の皮算用だが、我が家の子供たちが、その畑を受け継ぐかどうかも解ったものではない。