合 宿  
   
夏休みに仲間と一緒に暮らしながら、一つの目的を遂行するのが合宿のイメージだ。宿泊を伴うのだが、中学校のテニス部は宿泊がなかった。半合宿とかいっていたかな。高校のテニス部では、宿泊を伴う合宿があった。教室に泊まったり、青少年公園の施設に泊まったり。

大学に入ったら合宿所で暮らしながら、学校に通うという信じられない世界があった。2ヶ月足らずでギブアップしたのであった。生活がきつかったのではなく、自分のテニスのレベルが低すぎるのを痛感させられたのであった。
 
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2005~2016  常滑レポート index
そして、学部3・4年次には茨城県の勝田市(現ひたちなか市)の中根公民館や成田市下総松崎の公民館に合宿して横穴墓や古墳の堀を発掘し、龍角寺古墳群の古墳の測量などをしたものだ。修士の頃は福井県の丸岡の旅館に合宿した記憶がある。

岡崎市の平安時代の窯跡調査で、いろんな大学の学生諸君と合宿したのは学部3年から4年に移るころだったかしらん。結婚するまでは役所の互助会テニス部の合宿にも何度か参加したことがる。思い起こせば、けっこういろんな合宿に参加してきたものだ。


5年前から関わるようになった愛知学院大学考古学研究室は、先史考古・歴史考古それぞれ夏休みの合宿発掘を実習として単位認定の重要な要素としている。もっとも、僕のような社会人博士課程は、すでに実習を必修とはしていない。
 

せいぜい陣中見舞いで教授にビールを届けたり、申し訳程度に1泊して夜の酒宴をたのしんだりして過ごして来たのであった。ところが、今年は担当教授であり僕の博士論文の指導教授で主査の先生から是非参加して欲しいというお誘いを頂いた。


僕は非常勤で講義をやって3年目、今年前期の講義を受けた2年生からが合宿に参加するゼミ生になるので、ほぼ全員が僕の講義を取っている連中になる。美濃の17世紀の連房式登窯、今年で二次調査となる。昨年は現地説明会で訪れた可児市久々利の弥七田窯である。

大学院修士1年の女子が、この時期をテーマとして前期、何回か発表をしてくれているので、それなりの知識はついているが、決して十分なレベルではない。部分メッキを施した程度にすぎない。そして、省みると自分がこれまでやってきた調査は、とても粗雑なものであった。いや、何からなにまで雑なのだ。
   

そのあたり、教授は先刻お見通しであることは、昨年ぐさりと刺さる論文を突きつけられて以来、自覚しているのだが、それでも長期の合宿となればメッキもなにも地金が錆び付いた状態であることを完全に見透かされてしまうこと必定であった。

よって、お酒の相手くらいしかできませんが、などと逃げ口上を連発しつつ、回答を渋っていたが、夏休み前の院ゼミでとうとう寄り切られてしまった。結局、7月15日から27日の期間中、16日から18日と22日から27日まで、公民館に泊まり込み教授と相部屋で過ごしたことであった。

 
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教授・研究生・院生・学部生で構成されたピラミッドは、すでに完成しており、僕はその周りにちょこんと座ったスフィンクスのような存在ながら、居ればいたで検出遺構の解釈の仕方で異論を提起したり、仕上げの図面はどこのラインに設定するかと協議したり、まあそれなりの役割も果たしたりもしたのだった。

しかし、合宿が終わって僕に求められていたのは、決して専門的な分野での相談相手ではなく、実に生活のリズムを共有できる相手が欲しかったということであったと理解したのである。

教授は男子学生たちと同じ公民館で生活し、学生は一階の大広間、教授は二階の八畳ほどの部屋になっている。朝起きて、各自コンビニで誂えた食事をしつつ準備して8時に現場に向かう。そして、8時半から12時まで10時の休息を挟み、昼食はお弁当屋さんが配達してくれる弁当。午後は1時から5時ころまで3時の休息をはさんで。作業終了後は、現地で発掘した部分の説明を担当者が行い、質疑応答。

ハイエース4台に学生たちは乗り込み、教授と院生は各自マイカーで近くの公民館へ。公民館に着くとミーティング。その日の調査成果と明日の予定など。そして、お昼とは別の弁当屋さんが配達してくれる弁当で夕食。そして、車に乗って宿に向かうのが7時過ぎ。
 
   
最近は銭湯がなくなりスーパー銭湯まで車で出かける。学生諸君はハイエース。教授はマイカー。お風呂から出て、コンビニに寄り夜のアルコールやつまみ、そして翌朝の食材を調達。そして、飲み会からの就寝となる。

かつては教授も学生と一緒にハイエースで行動していたのだが、風呂からのコンビニ、宿、飲みあたりが学生とまったくペースが合わずストレスの溜まる原因で、自家用車にしたのだが、やはり一人で飲んでも酒はうまくない。お互いビールは酒ではないという認識を共有し、つまみの好みも一致するので互いに誂えたコンビニお摘みを勧め合ったりしつつビールを飲んで、学生たちの帰りを宿で待つ二人というシチュエーションが教授にはあったのであろう。
 
   
そして、学生たちが1時間ほども遅れて帰ってくると、下の大広間に出向いて焼酎などを飲みながら、いろんな話に花が咲くのも合宿ならではだ。がしかし、学生は二十代で我らは共に還暦オーバー。世代間ギャップも少なからず存在する。教授一人では話題の花もしぼみがちになりかねない。

最終日の夜は公民館でのミーティングを省略して、女子の泊まる公民館で合同の飲み会。2年生の女子学生が、男子学生と腕相撲をして、勝った勢いで僕のところにもやってきて「先生やろう」と。まあ、これは当方楽勝であったが、OGが見学時に差し入れた大分の麦焼酎がよくまわったことであった。勿論のこと記憶は蒸発。翌朝、別の女子学生が「先生大丈夫ですか。昨日の帰りタツオ君がおんぶして車に乗せてましたけど」と心配してくれたのであった。
 
   
従来の定説化した連房式登窯の理解から逸脱する、きわめて独自色の強い構造をもった登窯が存在するのだという学術的な意義を発信することが可能になった学術調査であった。
多くの来客が異口同音に、こんな窯は見たことがない。いったいどうやって焚いたんだろうと議論百出であった。学生諸君はそれがどれだけ理解できたかな。