世代交代  
4月に息子が就職し社会人となって4ヶ月が過ぎた。一応、無遅刻無欠勤で会社人に向かってまっしぐらだ。休みの日にBBQがあったり、飲み会があったり、結構家族的な経営をしている。

連日残業を2時間ほどしていて、政府の労働政策はどこへやらという感じだが、毎週水曜日はノー残業デーになっているあたり、経団連のお達しを守っているということだろう。

地元の営業所に配属になったおかげで休日の土日は、友達とテニス三昧だ。チームを作って市民大会の団体戦などにも出ている。そして、先達てのノー残業デーに食事の準備を整えていると、まだ明るいからテニスでもやろうという。
 
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2005~2015  常滑レポート index
隣町にわりと自由に使えるボロいハードコートがある。缶ビールを一本飲み終えたところであったが、よしやろうということになった。大学4年間を学連要員ながら、体育会部活で練習してきた彼と、週1でマダム中心のテニスレッスンを楽しんでいる僕とでは既にレベルが違いすぎるのであった。

それでも、かれこれテニス歴45年だから、ラリーの相手くらいは出来るのである。長く通っていた熱田のテニススクールは経営上の問題で4月に別のテニススクールに経営権を移した。新たにスクールを運営する会社はテニスとフットサルの両方ができるようにコートを改修するのだという。

その会社のスクールは僕の住む町にもあり、車で10分だ。そこで、これを機会にスクールを移ったのであった。金曜日の午前のクラスを選んだので、時々僕と同世代のオジさんが振替で入ってくるのだが、メインは30・40台の女性だ。
 
そして、そのレベルが体力的にちょうど良いところに来ている自分を自覚する。長くやれば上手くなるというものではない。うまくなる人は3年もやればずんずん上手くなって違うレベルに入っていく。

息子くんも高校のクラブでは1番手であったが、インターハイには出られなかった。大学でもリーグ戦の選手にはなれず、インカレは運営サイドで参加していた。やはり、レベルが違うのだと思う。

インカレ優勝選手でも世界の大会では、まったくと言っていいほど勝てないのが現実で錦織圭の凄さは、もう生きてて良かったと思わせるほど驚嘆ものなのである。息子君がWOWOWに加入してくれたので4大大会が観れるようになった。
   
いよいよアメリカン・オープンが始まった。グランドスラム大会のドローの四隅に日本人の名前があるという信じがたい現実。と思ったら、まさかの初戦敗退だ。それにしても、会場がアーサー・アッシュ・スタジアムだ。アッシュが現役でグランドスラム大会に出ている頃が、僕の高校生時代だった。

ヘッドのコンペティションという出たばかりのグラスファイバー製ラケットを使っていたのがアッシュだ。ジミー・コナーズはウィルソンのT-2000というアルミラケットを使っていた。

多くはウッドラケットの時代だ。まだ、マッケンローもボルグも出てこない時代。日本にはカワサキやフタバヤというラケットメーカーがあった。僕が最初に手にしたラケットはフタバヤのウィニングショットというラケットだった。
 
  2005~2015  常滑レポート index

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高3で一番強いころがダンロップのマックスプライであった。他校の生徒がラケット見せてくださいなんて寄ってきたものなあ。ウッドラケットで打つテニスボールの音がなんとも懐かしくもある。トップスピンなんていう言葉が無かった時代だ。

ヨネックスはヨネヤマ・ラケットといっていた。バトミントンのラケットがメインであった。高3の頃にメタリックカラーのアルミラケットを出してからテニスにウェイトが掛かったような記憶だ。

大学に入ったころヤマハがオシャレなグラスファイバーのラケットを出して、人気を博すと、カワサキやフタバヤが軒並みグラスファイバーに手をだして、随分様変わりし始めたのだった。それでも、ボルグが登場してドネイなんて無名のメーカーのラケットが一躍世界的な存在になったものだが、まだウッドだった。
社会人になって市民大会でダブルス3位になった頃が、ウィルソンのジャック・クレーマーというラケットで、僕が使った最後のウッドラケットだった。

そして、次のステファン・エドベリのころともなるとグラス全盛の時代だ。彼はウィルソンだったが、プリンスラケットがグラファイトで圧倒的に支持されたのもこの頃だったように思う。マイケル・チャンが使っていた。

そのチャンが錦織君のコーチなのだからなあ。まあ、週1のペースならあと10年くらいはやれそうな感じだ。酒の飲み過ぎが困りものだが、酒が飲めなくなった頃がテニスの終わりになるのかもしれない。