研究姿勢 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
梅雨前の気温34度という夏のような日がやってくる。この頃になると夕刻7時過ぎでも西の空には明かりが残っている。少し動けばすぐに汗ばむし、薮蚊に執拗に攻撃されたりもするのだけど、この季節は嬉しい。 もう非常勤講師なんて辞めて、研究者という立場も捨てて、このまま主夫と野良仕事師になってしまいたいという欲求が涌いてくる。そうこうしていたら、指導教官であった教授が僕の研究の根幹部分に疑義を呈する論文をお弟子さんたちとまとめて報告書に載せてくれるのであった。 いやはや驚いた。そういう展開があろうとは夢にも思わなかったが、これまでの彼の言動を想い起こせば、あれこれと思い当たる節がないでもない。その主張はいくつかの点で正鵠を射ている。しかし、いくつかの点で恣意的な資料操作というか、少ない資料を鍵として大きな変更を迫っている。 |
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2005~2014 常滑レポート index |
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その少ない資料は鍵として使うことに無理がある資料なんだと僕は控えていた資料なのであった。教授は中津川の窯跡を10年間に亘って発掘調査をしてこられた。そして、その総括をする上で中世常滑焼との関係は無視できない。 そこで中野の研究をそのまま受け入れるとどうもご自身の想定とずれるところが少なくないということなのだろう。学位を受けて以来、大学院のゼミに毎週顔を出しているのだがこのところ教授の見解と僕の見解のズレがどこにあるのかという点を詰める作業を行っている。 物を扱う学問が考古学である。そして、同じものを見ても研究者ごとに微妙に違った見方をするものである。大枠では変わらないのだが、変化し続ける物の形のどこに区切りを設定するのかというのは微妙なものになる。 |
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しばしば修士の学生には着いてこれないレベルの話に展開するのであるが、このやり取りを1年ほど続ければ、将来に残る内容の論文になるかもしれない。しかし、まだ30歳になるかならないかの頃に発掘調査をした遺跡の報告書に載せた図面が、この期に及んで自分を責めることになろうとは思いもよらないことであった。 その年はもう一つの遺跡の発掘も手掛けており、出土遺物の実測作業が自分ひとりではとても追いつかないという状況になった。そこで、出土品の整理作業で雇っていた社会福祉学部とかの大学生に作図方法を俄仕込みで教えて、いくつかの甕の図面を作ってもらったのである。 |
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その図には実物より新しい要素が盛り込まれるということになってしまったのであるが30年前の自分には、それが新しい要素だという認識すらなかったのである。それを認識できたのはそれから10年ほどたってからなのだ。 しかし、もっとも基礎となる資料作成にいい加減な態度で臨んでいたことが白日のもとに曝されるという事になってしまった。研究者としてあるまじき体たらくである。まあ、それが明らかになるのが現役引退間近の今であった事は幸いなのであろう。 |
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そこにいくとSTAPの小保方さんは厳しかっただろうなと、今さらながらに思うのであった。自分が故意にES細胞を入れたのならまだしも、そうとも見えないのだものなあ。ただ、自分の研究資料の管理が甘かったことは研究者としての姿勢が問われることになるのであろう。 長く日本には存在しないという定説であった前期旧石器の捏造を見抜けず、それを世界中に発信する根拠を与えてしまった芹沢長介先生は捏造が発覚するまで25年近く絶頂にあったのであろう。しかし、その晩年に陥った谷はあまりに深かったに違いないと愚考する。 |
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常滑焼の甕の一つ二つが14世紀の前半なのか後半なのか、そのレベルの低さは比較の対象にもならない。そして、茶碗のいくつかが12世紀の末なのか13世紀の前半なのか、これまた世間ではほとんど問題にもならないほど些細なものである。 しかし、そういうレベルまで研究を深めて来たのが我等世代なのである。先輩の研究者は13世紀の甕を15世紀のものだと論じ、13世紀の茶碗を15世紀のものだと公言して専門家の名をほしいままにしていたのだ。 先輩たちの研究成果をほとんど無価値にするくらいの大きな転換を行ないながら、その脇が甘いのがいかにも自分らしい。そして、教授はさすがにその甘いところを突いて来るのであった。後輩諸君にはもって他山の石とでもしていただくしかない。 |
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