急 須  
急須というのは中国の新しい喫茶法に伴う道具として中国明朝末期頃に生まれた茶壺(チャフー)を手本として日本で生まれたものなのだが、なぜか茶壺を手本とせず、薬缶のように焜炉に掛けて薬を煎じたり、酒の燗を付ける道具であるキップシュ(急須)という中国南部でもっぱら造られていた道具を見て、これこそ茶壺だと取り入れてしまったものである。

明末の混乱期に日本に渡ってきた黄檗宗の高僧、隠元隆琦の所持品を伝える宇治の万福寺宝物殿には、中国江蘇省宜興で焼かれた本場の茶壺があるし、長崎の唐人町の発掘からは茶壺が少なからず出土している。

日本で急須を用い始めたのは売茶翁、高遊外こと柴山元昭の頃からで江戸中期の元禄期以降になる。この売茶翁所持と伝える道具の中に南蛮急須なるものがあり、それこそが中国南部で造られた火に掛ける急須だ。
 
常滑レポート index
03/27  急須
石から鉄へ 
縄文時代 
年の瀬に 
乙未 
だいえっと 
完全主義 
 さいてん 
 定説くずし
 振り返りつつ
 夢のような
名前の世界
予定調和
かめら
論文提出 
 こんびに
小鮒釣りし
 論文提出
前近代・近代の彼方 男と女 
異 形 
ファール 
しみじみ
子どものころ
渥 美
飽和点 
世界
青い鳥
田舎暮らし
 日記
 自画像
人類史的転換......
美しき都会
 暗黙知
感動せんとや
稔りの秋に
バベルの塔の物語 
若者たちと
蝉時雨聞きながら
 行く末の記
過剰なるものども
 梅雨入り直後
笛を吹いてはならぬ 
 晴鳶堂の記
 桜咲く
 若者三人
忘我に導かれる事 
立春 
一区切りの正月   

2005~2014  常滑レポート index
宜興の茶壺は湯缶で別に沸かした湯を注ぎいれて茶葉から茶を出す道具であった。もっとも長崎の唐人館の図では火鉢の中で五徳に茶壺を乗せて直火に掛けている様子を描いたものが知られており、隠元所持の茶壺にも外底に被熱の痕跡が認められるという。

陶製茶壺の出自を探ると金属製の薬缶のような道具に辿り着く可能性は高いのである。それが、湯沸しと分離してティーポットとなるのが明末清初の頃とされる。ただし、その茶壺を用いた喫茶の文化は江南を中心とした中国中部、上海から大湖周辺を中心とした地域のものであった。

隠元は中国南部の黄檗山を拠点として活動した人物であり、長崎に居住した唐人もまた、その多くが中国南部の華僑を構成する人々たちであった。何時ごろからの分化かは不分明ながら江南は緑茶を喫し、南部は半発酵のウーロン茶を喫する。
 
また、茶は船乗りにとって脚気の原因となるビタミン不足を補う薬品として珍重されたといわれる。その他にもいろいろな薬効が云々されている飲料である。その茶葉の処理の仕
方が色々あっても当然である。西洋では発酵が最後まで進んだ紅茶をもって茶としているし、古くは抹茶や団茶といった茶が存在し、抹茶は日本においてガラパゴス化しつつ今日もなお遺存している。

売茶翁の思い違いに由来する急須は京阪の文人諸氏の愛好するところとなり、青木木米や清水六兵衛、仁阿弥道八といった京都の陶工によって国産品として生み出されることとなるのだが、文人画の泰斗たる池大雅クラスであっても急須の実態を知らなかったようで管茶山のがせねたをチラシにして配ったと「兼葭堂雑録」に記されている。

僕が急須について多くを学んだ山田義昌・陶山先生は常滑の急須について該博な知識をお持ちで実に真摯な姿勢の研究者であったが、急須そのものの由来については宜興の茶壺と同根と考えておられた。
   
明治10年、清朝末期に常滑を初め日本各地に足跡を残した人物に金士恒という人物がいるのだが、その金士恒は常滑で自作した朱泥茶壺の箱書きになぜか急須と記している。陶山先生は金士恒を先生として尊敬されていた。

生没年すら判らない人物である。自らは若い頃に上海で瞿子冶の塾に学んだとする経歴を語ったと伝えられているものの、近年知人が調査したところ士恒の若かりし頃に子冶先生が生きていたとは考えられないという驚きの報告に接して唖然としたものである。

中国において文人とは、かの科挙登用試験の合格者を言う。それは出身地の名士であり、生没年が不明などということは、いかな文化大革命の嵐の後であってもありえようはずもないと推測する。
 
 
最近、旧知の急須作家の作品をごっそり大人買いする中国人富裕層や台湾人愛好家が登場し、かの地でも金士恒が日本に宜興の技法を伝えた人物として著名人となっているという話題が出てくる。問屋も盛んに売り込み方を思案中であるとかいう。

作家に頼まれて彼の今日に至る急須人生に祝杯を贈る文章を彼の作品集に寄せたが、問屋さんの中国ビジネスには時に冷や水を差してもいる。作家氏は知識を求めそれを有り難いこととしてくれるが、問屋はその場その場で金稼ぎの道具としか見ていないように感じるのであった。
 
奇しくも長男は大手の茶業会社に就職することとなった。まったく知らなかったし、茶よりコーヒーを好む方であったはずなのだが、コンビニでのアルバイト経験から選択したようである。急須の国内需要を限りなく小さくした企業ながら、長期低落傾向にあった茶の需要を持ち直した企業でもある。

いずれ、茶のような嗜好品の道具にはいろんなものがあって当然であろう。急須よりペットボトルのほうが底辺を広げるものであろう。頂点は底辺に支えられるものであろう。
      2005~2014  常滑レポート index

 page top