名前の世界
 
ジークムント・フロイトが人の意識とは自分に都合良く組み立てられた記憶情報のごく一部に過ぎず、意識に上らない下意識とか無意識とか潜在意識とか言われるマグマのような意識が脳の中には厳然としてあり、そのマグマが顔を覗かせると人は精神に異常をきたすことを発見したのは19世紀末の事であった。

その学説の影響は芸術の分野に及びアンドレ・ブルトンのシュールレアリズム宣言なども生まれてくる。その後の多様な前衛アートは20世紀を彩る重要な要素だと思うのだが、いかんせん大衆には受け入れがたいものであった。
 
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2005~2014  常滑レポート index
そして、21世紀の今日においてもアートは、そのオタク的需要層に歓迎される一方で大衆との乖離は一層開いているように思えてならない。なんだか解らない、気持ちが悪い、いったいどこが芸術なんだと。

さて、2年間の研修を終えた陶芸研究所の研修生が作品を修了展示という形で発表する運びとなった。中に奥直子の作品がなかなかに面白いと思っている。
   
近年の公募展には、この種のかなりリアルに作りこんだ動物や、その骨格などに想を得た造形がしばしば出品されており、現今の一つの潮流なのかもしれない。

作品の出来についてもいろいろと考えさせる所があるのだが、ここでの面白さはそれを見る人々の側にもあるのであった。つまり、その作品に対する多くの感想は、これは鹿だ、これは虎だ、これはライオンか?いや麒麟に違いない!と いう作品のモチーフに関するものが多いことである。
   
前衛芸術は解らないという意見は多くの人々の常套句であって、解らないけど面白いという意見は少なく、解らないから門前で退却というのが普通のパターンと見受けられる。

そこに行くと奥作品は解りやすい作品の部類に入る。そして、ライオンか麒麟かの作品は作者が麒麟のイメージから着想しましたといえば大いに納得して、そらみろこれは麒麟だといって、したり顔で他人に説明をしたりする御仁も現れるのだ。
 
 
解らないというのは名前が無いということであり、その名前は「牧歌的瞬間」とか「在」「永い夢」「小さな牧歌的瞬間」といった隠喩の作品名ではなく辞書を引けば出てくる名前である。

われわれ人類は地球上のあらゆる物や事に名前をつけてきた。それが、体系化されて現代の文明が存在する。しかし、この文明が地殻のズレによって惹起される自然現象によって容易に変調をきたしてしまうことは3年前に嫌と言うほど教えられたのではなかったか。
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 それでも、やはり名づけて安心できる確固とした地平を求めて止まないのが人間という生き物なのであろうか。いや、名づけることも出来ないような存在を受け入れることの不安に耐えられないのが人間なのかもしれない。 

造形に限らず文学においても名辞以前の何とも捉えどころがない事柄を様々な語句によって隠しつつ表現することがあるのだということ、近年あまり語られることのなくなってきた漱石の評論で江藤淳が示している。

奥が何を考えてこれらの作品を生み出したのかを聞けば作者の制作にかけた想いは聞けるのだが、作品は作者を離れて勝手に受け取られていく。筆者は作品とそれを受け取る一般人との間に立って、その作品が生み出す時代を見ようとしているのであった。
 
   
どれほどリアルに作ったとしても所詮は作り物である。本当の動物にはならない。そして本当の動物を作ることが神の領域に属するという点で、その領域を入手したという感動を人々は得るのかもしれない。がしかし、クローンの動物は芸術的感動を与えるとも思えない。

そして、芸術が神の造形と密接に結びついて展開してきたことを思えば、われわれはそこに何がしかの形で宿る神的要素を見て心を振るわせるのに違いない。そして、これは神だと名づけて納得してしまうことは、おそらく日常の中に感動を押し込むための手段ではないか。

偶像を禁している宗教は、その神の日常への取り込みを禁じているのではないかと思う。