人類史的転換は可能なのだろうか
 
常滑レポート index
01/01   人類史的転換......
美しき都会
 暗黙知
感動せんとや
稔りの秋に
バベルの塔の物語 
若者たちと
蝉時雨聞きながら
 行く末の記
過剰なるものども
 梅雨入り直後
笛を吹いてはならぬ 
 晴鳶堂の記
 桜咲く
 若者三人
忘我に導かれる事 
立春 
一区切りの正月   




2005~2012  常滑レポート index
過去に起こった様々なことなど、あとになって詮索したとしても、今更どうなるものでもない。懐かしんでも戻ることは出来ないのだし、どうしても判らないことの方が、新たに判ることより多いのが実際のところだろう。

就職したての頃の上司で教育部長という肩書であった人物が、僕にこれみよがしに言った台詞。「俺は未来に向って仕事をしているんだ。昔の事なんか今さらどうだっていいじゃないか。」それは、彼の取り巻きに向っての発言だったが、それを僕が聞いていることを前提としてのものであった。
 
   
おそらくは、そういう一見前向きの思考法が、この国の驚異的な戦後復興を支えて来たのかもしれない。そして、右肩上がりの経済成長が信じられた時代の上昇志向を典型的に物語るのが、この発想なものかもしれない。貧乏人は麦を食え!などというキャッチ・フレーズがぴったりとくる。努力すれば銀シャリが食べられるという事の裏返しだ。

いま一つは、今ここ、という時空をやりすごしていけば、それで良いのかもしれないという考え方。遺伝子を次世代に伝えていくことが、この世に生を受けた生物としての役割だということも人間以外の生物にとっては当たり前の事なのだ。

かつての人類を万物の霊長として認識してきた楽天的な自画自賛の時代が終わろうとしている。そして、その反対に地球の秩序を乱す悪者的存在としての人間観は若者たちに共有されている。
 
しかし、その一方で、なぜそういう事に立ち至ったのかと問えば、その答えは過去の人類の活動の中に明らかなのであって、その歴史は人類が築き上げてきた文明の勝利の歴史でもあったのだった。まさに未来に向けて一直線に引かれた道筋を歩んできたということもできるだろう。皮肉なことではあるが。

ところが、巨大な自然災害の前に人類がいかに無力であったのかを現代においてすら思い知らされる事態に直面してしまった。その脅威に対していかに自らを守るかは、当然の志向であり、そこから新たな町が都市が作られてくる。

難病に苦しむ人々がいれば、それを治す手段を見出し、病苦から開放しようとする。IPS細胞万歳である。飢餓に苦しめば食料の増産手段や供給体制を整えようとする。苦しみからの逃避の結果として、なぜか鬼っ子のような存在になってしまったのが人類ということになる。自然災害に強い町もまた、その負の側面を担うことになるのだろう。
 
 
第二次大戦後に知ったアメリカ合衆国という国は、豊できらびやかな憧れの国であった。悪役のインディアンと戦う西部劇にも胸を躍らせて観たのだった。しかし、その白人至上主義的な認識が21世紀には成り立たなくなっている。そして、それと同時にアメリカという国の文化に対する憧れは、すっかり色あせてしまった。

銃規制の運動に対して「それでは銃を持った悪人から、どうやって吾々は身を守るというのだ。それには我々が銃を持って悪人と戦うしかない。乱射事件から子どもたちを守るために学校に銃も持った警備員を配置するべきだ。」というアメリカライフル協会のメッセージはいかにもアメリカ的だ。

銃をもった悪人がはじめから悪人なら、その悪人には銃を持たせなければよいということだ。問題は銃をもった警備員が置かれた状況によって子どもたちに銃を向ける場合がいくらでもあるという現実ではないか。

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しかし、善人と悪人を区別して善人が繁栄する方向にひた走る。たとえ、その区分が独善的だと批判されようと、圧倒的な力でそれをねじ伏せるというのが、アメリカ流のやり方なのだと見えるのだった。

そして、スーパー・マーケットに象徴される圧倒的に安価な食材の提供やデパートメントストアのなんでも売る商品の氾濫こそがアメリカの繁栄であった。栄養過多の肥満が社会問題化する文明は、ある意味人類の夢の実現であった。そして、悪夢がそこに含まれているのが、なんとも意味深い現実である。

ヨーロッパもまたしかりだ。たしかに、まばゆいほどの美しい町並みがあり宮殿があり美術館や博物館は世界遺産級のものばかりなのだが、その魅力がいささか褪せて見えるのはやはりユーロ圏の抱える問題があるからなのだろう。そして、そこには冷戦体制のしこりがあり、全ての国が勝ち組にはなれないという現実がある。
 
 
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2005~2012  常滑レポート index

 
現代史としての時代が動いている姿を60年近く生きてきた身として、自分の記憶をもとに感じるのであった。そして、価値観が大きく様変わりしていることに無関心ではいられない。そして、近代化路線の行き詰まりという印象が強いのである。

歴史を巻き戻す行いは、しばしば歴史的な惨事を生むことになることは証明されているのだから、飢餓が定期的に訪れる社会に戻ろうなどということはできない。しかし、商品とならない農産物や漁獲品を廃棄処分にし、遠隔地から、さらには外国から安価な産物を大量に仕入れて、食糧として十分であっても商品として否定されたと廃棄する現今の経済システムは見直すべきであろう。

人の生き方もまた、大きく変わっていかざるをえないのだろう。人生をどのように終わるのか。いつまでも生きていることはできないのだし、やるだけの事はやったという自負が持てる人生であれば、自律的に終わるのも悪いことではない。どうせなら惜しまれつつ去っていくのが人生の美学なのではないだろうか。いつまで生きているのだと面倒がられてまで生きているのは御免蒙りたい。そろそろ、そんなことも考えるべき時期かもしれないと年末にあれこれ思案するのであった。