子どものころ
 
常滑レポート index
 05/20 子どものころ
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忘我に導かれる事 
立春 
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2005~2012  常滑レポート index
僕らは、いまそこに何を見たいと思っているのだろう。それは、今の自分を国を世界をどのようにみているのだろうということと同じ問いだ。過去のアルバムをめくって想い出を紡げば、そのころの事が形を結ぶことになる。

しかし、それは過去にあった事実ではなく、今の自分がそのころの記憶をもとにして作り上げた虚像に過ぎない。

保育園の学芸会のステージ、子羊が大時計の振り子の裏に隠れる役。そこで客席の写真屋のカメラからマグネシウムの白い光が一瞬に燃え尽きる。そして、なにも残っていない。はるか昔のなにも不安のない天真爛漫な時代があった。
 
   
そんなわけはない。子どもながらに乱暴ものはいたし、年長組の連中はいばっていた。それでも保育園の時代は平和な時代と思いたいのだ。実際、いやなことは忘れている。トイレの底には奈落の空洞が空き蛆がうごめき、悪臭を撒き散らしていた。赤痢やコレラで閉鎖されたことも。

小学・中学と暗愚な時代を過ごした。強度な上がり症であった。裏を返せば自意識過剰であったのだろう。その自意識の高さほどには何も知らなかったのだが。野山を歩き回った時代であった。冒険や探検が少年の心を燃やす装置であった。なぜか、そんな情報が子どもの周りに溢れていた。

テレビが家庭に入り出していた。白黒の時代だ。歌謡曲が流れ、漫画がヒーローが心を奪っていった。アトムの子どもだ。鉄人28号やクラーク・ケントに時のたつのを忘れて見入っていた。暗愚ながらに希望のようなものがあったような。
 
その希望は8番ライトの補欠やテニス部のレギュラー外の自分にとって、決して手の届くものではなく半ば憧れのようなものであった。東京オリンピックの時代は、なぜか子どもたちも体操選手やバレーボールの選手に憧れた。そして、グループサウンズの時代だ。テレビはカラーになった。

教師はいたずら坊主を教壇の前に並ばせて平手打ちを食わせた。劣等感に苛まれた時代があった。権威としての体罰は当たり前にあり、正座も随分させられた。お前の事が好きだといってる女子がいるぞと教えられた。

2組のクラス委員のバッジを付けてるひどく目立つ女子は、まったく知らない子であった。いつも学年でトップ10に名前が入る、その女子に比べて自分はクラスの中でも中の下の順位を定位置としていた。まったくやってられない。
 
 
自意識だけ過剰なのだから彼女と同じクラスになっても口もろくにきけないのだ。ラジオの深夜放送とフォークソングの時代であった。若者はなぜか夜汽車にのって旅に出るものとされていた。青年は荒野を目指すのだ。スポーツ根性物のドラマやアニメがそこここにあり、ハレンチ学園が現れたのだった。

高校受験を控えて、小学校からの遊び友達が急速に成績を上げていく時の置いてきぼり感や、仲の良かった友達が知らぬ間に彼女とくっついていたり。そして、自分の能力を安く見積もり、適当な人生を送ろうという妥協をしたのであった。大阪で万博が開かれた年であった。三島由紀夫が割腹自殺をした。

という自分史は、実は今の自分の立場で子ども時代を評価している。高校生活と浪人の1年を経てから自分にずっと言い聞かせてきたストーリーなのかもしれい。

自分のまわりには家庭の事情で勉強どころではない連中もいたし、屈折した所のあるのは、かなり苛められてもいた。容貌に個性のある女子をひどくいじめているやつもいた。あまりなことを言うので、お前おかしいんじゃねえかというと、お前あいつに気があるだろう、などという奴であった。

自分が愚鈍であったと思えるのは、今の自分であれば、あのような子ども時代を過ごしはしないという悔恨めいたところがあるのだろう。そして、その一方でそうした愚鈍時代も自分には必要だったかもしれないという思いも綯い混ぜになっているのかもしれない。

所詮、自分の素性をたどれば、どれほどのものでもないという意識が根っこに潜んでいるからかもしれないが、それは現状を肯定していることの証でもある。肯定というより満足と言うべきか。 
 
   
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笛を吹いてはならぬ 
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桜咲く
若者三人
忘我に導かれる事 
立春 
一区切りの正月   
 現状に不満が満ち溢れていれば、あの頃の自分を貶めた連中を告発しているのであろう。それが被害妄想であったとしてもだ。さらには、戦わなかった自分自身を攻めているに違いない。そして、その能力を自分に与えなかった親に対して怨嗟を浴びせているのかもしれない。

芋虫の時代や蛹の時代を美しいとは言わないものだ。それが、蝶になったときに、かつての自分も必要な姿であったと認めるのであろう。それが、毒蛾になってしまったとき、蛾は過去に復讐せんとしているのであろうか。まあ、毒蛾も美しかったりするけど。
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