蝉時雨聞きながら
 
常滑レポート index
08/24   蝉時雨聞きながら
 行く末の記
過剰なるものども
 梅雨入り直後
笛を吹いてはならぬ 
 晴鳶堂の記
 桜咲く
 若者三人
忘我に導かれる事 
立春 
一区切りの正月   




2005~2011  常滑レポート index
梅雨明が開けてから2週間ほど、連日の猛暑が続いた。職場の欅の梢ではクマゼミが大合唱を繰り返し、さながら大法要の如くだ。そして、盆も過ぎ。雷鳴を聞くことが多くなった頃、ツクツクボウシの声が聞こえてきた。。

毎夏繰り返される蝉の合唱は、同じ声で響き、同じように子孫を地中に残して、個体としてのセミたちは死んでいく。それ以外に何も残さない。

もっとも、屍骸は蟻たちのような小さな生き物によって解体され、バクテリアもそれを食料として、それぞれの子孫を残すことになるのだろう。
 
   
   
今年は現代アートと呼ばれるジャンルを中心として、芸術分野に触れることの多い年になっているのだが、どうしてこういうものを表現せずにはいられないのだろうかという疑問が頭の隅に引っかかって仕方がない。

ただ美しいのもを作っていれば良いというところに大きな楔を打ち込んだのは第1次世界大戦という機械による人類の殺戮合戦の衝撃であったと。ダダイズム宣言。そして、シュルレアリスムへと。

そして、核兵器開発という現代に至るわけだ。そこには個体のレベルをはるかに超えた人類の消滅という宗教的とでもいうべき結末が暗示されている。いや、その結果は明示的なのだが、それが現実になるということが、いまひとつ明確ではない。それは、あくまで抑止力としての兵器にとどまるのではという楽観。
 
王の死や北方騎馬民族の侵略という恐怖にみられる巨大遺跡構築に向うパトスは明瞭だが、人類の消滅という危機に対して為しうることとは何なのか。明らかに開けてはいけないものを開けてしまったのだろうが。そして、それを捨て去ることもできず。さりとて、その推進もできない。エネルギーにしてもまた同じことなのだろう。

人間の欲望とそれを満たす技術の開発。そして、自然界との関係性といったものが人間サイドで頂点に達し、自然サイドから危険信号が発せられているのが現状という認識だ。そして、その危険を認識しつつも抜き差しならない状態の中でもがいていると。
 
 
そのもがきは、もはや芸術といった領域ではなんともならない段階に来ているということなのだろうか。宗教の分野も似たようなところがあるように思える。哲学・思想の分野もこのもやもやを取り払う大きな流れを生み出す力を失ったかのごとくだ。

ニュートリノやヒッグス粒子の確認によって宇宙の成り立ちが解明されるという。その壮大な研究もまた、一方では、その解明より先に放射線廃棄物の最終処分技術の確立という現実的な課題の前では随分小さく見えてしまう。

こんな時にはスポーツがカタルシスを与えてくれたりする。勝敗は明確だ。そして、その先に国家間の紛争が控えていたりもする。民族問題や領土問題など、火種はいくらもあるのだから。そして、安直にスカッとすると、その先には深刻な泥沼がまっているとしたものだ。

このあたりは個人の問題でも同じことか。自分の生き方もそろそろ大きな課題を抱え始めているのだが、その問題をどのようにして解消していくのか。いろんな関係の中でできた距離を修正しつつ、いくつかの幕引きを準備しなければいけない。
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