過剰なるものども
 
常滑レポート index
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2005~2011  常滑レポート index
かつてモノの本質に迫るために表面的なもの、余分と思われる外部的なものを取り除くことで、そのモノの本質こそが持ちうる本質的な美を表現できると思っていたときがあったのだった。

その前は眼に写るものそのものをあるがままに描くことに本来的な美があると思われた。それは、あえて神々のように理想的な脚色、演出をせずに市井で暮らす庶民の生活の中にも、明らかに神を見ることができるという神に関する理解の裏返しのようなものがあったのに違いない。
 
   
   
風景に、自然に、生物に美を見出し、描くこともまた、そこに造物主の意図を汲み取ることができるからに違いない。

ギリシャ・ローマの時代の歴史的事件や神々を描き、旧約・新約の聖書に描かれた情景を描き、形作ることもまた、そこに神々の美を見出し、その神々が生み出した古代の輝かしい文化を美として表現することであった。

作:片山真理...........アートアワードトーキョー丸の内2012 グランプリ作品
 
浄土の世界も不老不死の仙境も花鳥風月も人知の及ばぬ理想郷として、あるいはその装置として描かれ形作られてきたのであろう。そして、それらは明らかに生物学的なヒトにとって過剰なものである。

神仏や美といった要素など遺伝子的に無意味なものに違いない。もっとも自分の遺伝子がもっとも有効に受け継がれる要素をもった異性を美とするのであれば、それは認めるべきだが、そして、往々にして競争率の高い美個体は遺伝子的に見ても有効なことも認めるべきであるが、美個体の要素は時代と地域によって異なるように生物的な要素ではない。孔雀の尾羽とは違うのである。
 
 
作:片山真理
 
といったことが影響しているのか、いないのか近年の陶芸作品などでは過剰なる表現が一つの流れとして見て取れる。これでもかと云わんばかりなミミズの増殖のような、蛙の卵の集積のような。草間弥生の存在は大きいのかもしれない。

それもこれも含めて神仏的な過剰は相変わらず生き続けているということになろうか。その過剰こそが人類の人類たるところでもある。ピテカントロプスはホモ・サピエンスになってしまうのだから。
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