公募展  
 
常滑レポート index
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無常
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歴史的新年の閃き




2005~2010 常滑レポート index
研修生がオブジェを制作して公募展に出品しようとしている。見ると素人臭が鼻につく作品で習作という域を出てはいない。ここは制作意欲を高めるために、お世辞を言ってやる場面なのかもしれないが、どうしても歯の浮くような台詞を作品を見てから言う事ができない。


そして、翌日のミーティングにて、縄文時代の人々は日々生きていくことを最優先として時間を使い、その中で土器を焼いたのだが、土偶に代表されるように、その焼物は生活用具とは異次元の宗教具のようなものを生み出しているという話。
常滑市民俗資料館




石器にしても狩猟の道具や木工具だけではなく石棒のような土偶の相方を拵えている。弥生時代の銅鐸にしても、銅剣、銅鉾にしても祭りの道具として作られるようになる。その制作動機には神であり霊であるような何者かが介在するのだった。


やがて体系化された仏教が伝われば仏像や仏具の類に仏が宿ることになる。そしてまた山川草木いたるところに仏性を見ることができるようにもなるのだった。神仏が人事を超えて作品に宿っているように見えるものこそが只者ではない作品になるんでないのか。
言うは易く行なうは難しだが、よくもまあこれだけのことが出来たことよなあと見るものに言わしめる作品をこそ望んでいるのだよ私は。いや、何かが宿っているねと思わせる作品でもよい。これは只事でないという驚きを私に与えたまえ、である。


この頃は器用な作品をいくらでも見るのであるが、驚きを求めているのだよ、とついこぼしたくなるのだった。そんなことを思いつつ、久々に県の美術館に棟方志功展を観に出向いたのだった。
   
25年ほど前に竹橋の近代美術館で観て以来だが、やはりこれが宿っているのであった。技巧の如何ではないのだと強く感じたのであった。版木と版木の境で絵の輪郭が多少ずれていようが、なんのこともないのである。


そんな話をすると、くだんの彼が神は鼻くそみたいなもんでホニョホニョと人間作ったんと違いますかという。なるほど神は粘土で自分の姿に似せた像を作りアダムを作ったと旧約は伝えている。
  
だからこそ人体に神の意思が反映しているのだということになろう。ヌードが芸術の本流に位置してきたのもそれがためと言っても過言ではない。しかし、そこに神の意思をうかがわせるだけの作品がどれだけ生み出されてきたのだろうか。


蝉時雨の降り注ぐ欅の木の下に立っても神仏を感じるし、蟻がせっせと鳥の羽根を運んでいる姿にも神物を感じてしまう猛暑2011の8月ではある。そうこうしていると若手でじっくりと彫刻的造詣に取り組んでいる若手作家が話をしたいとのこと。


聞けば近年評論家筋は焼物を中空の宿命を担った造形分野として設定し、そのガワの造形こそが陶芸であるというような論調に強く違和感を憶えるのだとのご意見であった。これはなるほど焼物屋の発想と彫刻家の発想の違いと言えなくも無い。
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日本の陶芸は伝統に裏打ちされた技能があるだけに、いろんな形で展開させることができてしまうのだった。しかし、その器用さが仇にもなるのであって、表層だけを、ガワだけを真似てそれらしいものを作ってしまうことができてしまうのだと思う。


それをそれとして逆説的に肯定するのもありなのだろうが、そういう流れにはなっていないと思われてならない。
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