経済格差広がる中の「豊かさ」について

巷間では経済格差の広がりが懸念されるようになってきた。先日のテレビでは年収180万円の独身勤労女性の生活ぶりが紹介されていたが、木造アパートで風呂なし、炊事場・トイレは共同という今や古代的遺物かと思われていた建物に住み、夜は素うどん一杯だけをすすっているシーンが映されていた。

今までは「勝ち組、負け組」などとまだ余裕のあるところを見せているが、もうちょっとすると国民の何割かが低所得や過重労働に呻吟することになる。そうして職にあぶれた若者が街にあふれ、老人の多くが孤独死をし、治安状況は全国的に悪くなっていって、人心は荒んでいく。まあそういうふうな未来像が描けるのだそうである。

こんなことをなんで書くのかというと、そういう時代になってくると工芸はどうなるんだろうという、僕はいつもそういう視点で世の中のことを思うからである。経済格差が拡大化した社会にあっての工芸にはどんな意義があるのかという、そういう疑問である。

工芸と「豊かな暮らし」はイメージの上でつながっている。「豊かな暮らし」を彩るステータスとして工芸品が生活空間のどこかに鎮座する。しかし生活が貧しくなれば工芸品は見捨てられる。それどころの話ではなくなってくるのである。そうなった場合には低所得者にとっては工芸などなんの意味も持たなくなる。「工芸」というのは所詮お金がありあまている世界で初めて意味を持つ事柄である、と考えられるのが一般である。


(NHK HPより)

ここで「豊かさ」とは何だろうか、どういうことだろうかという、お決まりの問題コースが提示されてくる。しかし「豊かさ」をめぐる議論をいくら重ねたって、低所得状況を脱出できるわけではない。この議論そのものが、非低所得クラスのひまつぶしの話題といわれることにもなりかねない。

しかしここはもうちょっと粘ってみよう。東京で年収180万円で生活するという前提で「豊かさとは何か」ということを考えてみる。件の独身勤労女性の夕食は素うどん一杯を余儀なくされているわけだが、そういう映像が送ってくる貧しさのイメージは、物質的な条件に依るものではないという仮定をここで立てることが可能である。つまり、それは物質的な貧しさではない。そうではなくて、厳しい言い方かもしれないが、その女性の想像力の貧しさであると仮定してみるわけである。物質的与件がどうであるかということと「豊かさ」の内容とは関係がない。物質的与件がいかに乏しくとも、そこに一塵の悦びを見出しうるかどうかは想像力の問題にかかわっている。年収180万円の中から、素うどんに加えるべき日々の一品の具を求める工夫を見出していくのが想像力である。そしてそういう想像力こそ、過酷な時代を生き延びていく力の元となるものである。

「豊かさ」ということはそういった想像力の問題とかかわっていると考えたい。想像力をベースとして、物質的にはいかに乏しくとも「自分の世界」と言いうるものを作り上げていく、それが「工芸」の精神というものである。このように解釈すれば、工芸はまさしく人の生き方にかかわるところで成り立つ何ほどかのものとなる。