着物をめぐる情けない会話

先日、さいたま市の呉服屋さんでこんな話をした。
紬の着物というのは肌ざわりがごわごわしていて着づらいという印象があり、お客さんからは敬遠されがちなのだそうである。実際、紬の着物の多くは緯糸の打ち込みがかなり強そうで、いかにもごわごわしている。

だけども昔の人が織っていた紬というのは肌ざわりが柔かく、体になじみやすくて、それこそ日常の活動に支障をきたさない機能性を有していたのである。そういう昔の紬に出会ったりすると「ああ、これが紬の着物なんだ」と認識を新たにする。

そして着れば着るほど体にますます馴染んできて、色合いも段々と深みをましていくのが本来の紬である。そんな話から、呉服屋さんのご主人がこう言った。

「お客さんで、ある染織作家の着物を4反まとめて買った人がいたんだけれども、どの着物も4回も着ると背中の合わせ目のところがほつれてきたんですって。4回着てからお金を払えばよかったと言ってる。」

「ふーん」と僕。

「織り目なんかもゆるゆるで、耳にそってループができててね。あんなの着れないよね。」

「三越でやってる日本伝統工芸展に入選している染織作品(着物が多い)なんかみんなそうですよ」と僕は即座に応えた。

日本伝統工芸展に出ている染織作品を僕はもう何年も見ていない。
見に行ってた頃は、見るたびにものすごく不愉快な気分になり、見に来たことをすごく後悔した。

耳はループで縁取られているし、織り目はゆるゆるで風合いはペラペラだし、要するにものの質のレベルがものすごく低いのである。人間国宝の作品でもそうで、着物としての実用性はほとんどないといってよい。
「あの人たちは自分から宣言してますよ、着られるかどうかということは考えていないって」とご主人。

「自己表現だからね。」

「着れない着物を作ってどうするんでしょうね。」

「伝統工芸展の人に限らず染織家はみんなそう言ってる。着物は自己表現のためのキャンバスなんだって。だけど自己表現として見ると、つまらないものが多いけどね。」

「パターンにはまっちゃってるよね。」「そうそう、どういう作りのものが入選するかという判断で作られているから、みんな同じ方向を向いている。自己表現でもなんでもない。」
織りでも染でもいいが、着物を作る以上は着られるものを作るべきである。

工芸のこれからは、そのことをきちんと確認するところから再出発すべきである、と最近考えている。


では「着られる」とはどういうことか。これが難問であるのが工芸のこれまでであった。