「詐欺」について

 オレオレ詐欺、高配当を謳った集金詐欺、ちょっと古いところで偽装建築、入れ替わり立ちかわり出てくる食品加工の表示改ざん、社保庁職員による国民の保険金の私的着服、政治家のマニフェスト、そして我々の一番身近なところでは美術工芸品の真贋問題など、世の中に詐欺行為が蔓延しています。なぜそうなるのかというと、道徳意識の低下とか官僚の横柄と腐敗といったことも原因として挙げられますが、より根源的には、前回話題にした「使用価値は買った後で見出される」という、貨幣における「使用価値の留保性」ということに根ざしていると思います。

 早い話が、詐欺が発覚するのはいつだって事が成った後、つまりお金が支払われた後です。お金が相手にわたり、手元に残されたものが実は自分が必要としていたものではなかったことに気がついて、そこで初めて「詐欺だ!」と知るのです。支払われる前に気がついて取引を不成立にすれば、詐欺は成り立たないことは言うまでもありません。

 「これを買いませんか」と言って提示されたものは、買い手の立場から言えば、厳密には使用価値として承認してから買うものではなくて、「貨幣と交換できるもの」にすぎません。それは町の商店に並んでいる商品にしても同じです。薬屋さんの風邪薬が実際にはあまり効き目がないということを、目くじら立てて問題にしようという消費者はあまりいません。つまり買う以前の商品は使用価値としては「無規定的」であり、そのことを買い手もまた暗黙のうちに了解することによって「世の中」が成り立っているのです。ここに詐欺行為が成立する淵源があります。

 逆に言えば、売り手は何を売ってもいいのです。得体の知れないものであっても、買い手が買えばそこで売買が成立するのであり、それが自分にとって必要のないものであることに気がつき、交換行為を解消しようとしたときに売り手が不在であれば、詐欺ということになります。買い手が納得すれば、詐欺にはなりません。

つまりあらゆる商品は潜在的な詐欺発生装置であるということができます。薬屋さんの風邪薬を、これは効かないといって告発することも理論的には可能であるということです。北海道のミートホープの牛肉は、告発があるまでは「牛肉」で通ってきたということが世の中の実相というものではないでしょうか。詐欺事件というものは、加害者と被害者の共犯であることが多いのです(そのことに気がつかない被害者が多いようですが)。

 当たり前のことを言うようですが、「買う」という行為は、お金があるから買うのです。この観点からすると、「買う」ということは使用価値を手に入れるということではなくて、自分が所有する貨幣をものと交換するということです。お金があるとついついものを買いすぎてしまうとか、みんなが買っているから自分も買うとか、ブランドものに殺到するとかいったことは、「買う」ということが貨幣と使用価値との交換を目的とするのではなくて、「無規定的な剰余価値」によってある種の欲望――所有したいとか、みんなと同じであろうとする欲望――が発動されることであると言うこともできるでしょう。

 しかしもうひとつの側面も認めておく必要があると思います。それは、買うという行為は「いのちがけの賭け」であるということです。これは「買った後で使用価値を見出す」ということを積極的に意味づけていくことから出てきます。「使用価値を見出す」とは「使用価値を創りだす」ということです。つまり、「買うとは使用価値を創り出すことである」として、この場合の「買う」行為はいのちがけの賭けとなるということです。