「さるかに合戦」の教訓から

 最近ミョーなことを考えたので、公表します。

 それは「さるかに合戦」というおとぎ話に関することです。この話はさるとかにがおにぎりと柿の種を交換したことに端を発して、最後は「合戦」という事態が勃発するという話でしたね、確か。このおとぎ話の教訓は「交換の不条理」ということだということは、ずうっと以前から思っていたのです。「交換の不条理」ということから戦争が引きおこされるのですね。

 「交換の不条理」とはどういうことかというと、そもそもおにぎりと柿の種が交換できるとする客観的な根拠は何かと考えると、実はそういったものは何もないのだということです。単にさるとかにの両者が合意することで交換という行為が成立したに過ぎないのです。

 交換の不条理を「交換の無根拠性」と言うこともできます。ところでものとものを交換するということから「お金」という媒介物が抽出されてきます。ものの価値量は価格という言い方でお金の量として表現されます。つまり、ものの価値を数字に置き換えることで、ものとものが交換される客観的根拠が成立することになる、うっかりとそういうふうに考えてしまいがちですが、実際はそうではないのです。真相は、お金というある意味普遍的な媒介物を抽出してくることによって、「交換の無根拠性」が隠蔽されていくのです。そしてそれによって、お金というもの自体に価値があるわけではないのにお金が自立して、まるで価値そのものであるかのように見なされるようになっていくというわけです。

 この考え方はすでに他の人が言ってることであって、ミョーな考えというのはここから先です。

 人はお金をなぜ持つのかというと、原理的にはものと交換するためです(原理的には、というのは、貯蓄とか利子とか最近はマネーゲームとか言って、いろいろややこしいことがあるからです)。ものとはこの場合、使用価値のことです。少なくとも経済学ではそういうふうに見なしています。つまり人は通常、使用価値をお金と交換するわけです。ということは、お金というのは「留保された使用価値」であるとか、「使用価値の抽象形態」というふうに言い換えることができるということです。お金はそれ自体は使用価値を体現するものではなく、しかし必要な時にはいつでも具体的な使用価値と交換できることが保障されているものだということです。

 お金の形で留保されている使用価値とは、ひらったく言えば、今すぐには必要とされてない使用価値ということです。今すぐには必要ないのだから、とりあえずは剰余価値(余分な価値)であると言えます。つまり、お金は剰余価値であり、どのような使用価値とも交換可能であって、それを拘束する客観的な条件というものはありません。これを「無規定的」という言葉で表現してもいいでしょう。

 「買う」ということはこの無規定的な剰余価値に具象的な目鼻をつけるということ、言い換えれば、そこに使用価値を見出すということです。そう考えると、使用価値とは実は「買った」あとで見出されてくる価値であるということになるのではないでしょうか。商品はお店に並んで買い手を待ち受けている段階ですでに使用価値を体現していると僕らは思い込んでいます。でも事実はそうではなくて、自分にとって本当に必要なもの(使用価値)は、実は買ってしまった後で見出されてくるものなんですね。そう思いませんか?