「奥行き」または「深さ」について
前回の「芸術」批判(6)の中で、「時空間の認識がきちんとなされていること」の内の、空間に関する「奥行き」感覚の取り戻しということに触れましたが、今回はこれについて言及しておくことにします。

「奥行き」感覚というのは、出だしは造形表現の在り方として特に平面(2次元空間)上に立体(3次元空間)を表現することから始まって、人間の精神活動において感取・認識されるものの奥行きとは何か、というような哲学的な問題にまで発展させられるひとつの問題領域として考えることができます。

平面上に奥行きを表現する方法の代表的なものといえば遠近法とか陰影法とかがあるけれども、これは西洋の近世美術が開発した平面上での3次元空間表現法であって、ところ変わって中国の古い山水画が開発した遠近法はそれとはまた全然違ったものです。

したがって、「奥行きとは何か」という問題へのアプローチは西洋と中国では全然違ってくるということになります。


同じ西洋でも、たぶん、古代と中世と近世と近代ではそれぞれ「奥行き」の捉え方は異なっているはずであり、近世ルネッサンスが発明した遠近法や陰影法などは、たくさんある「奥行き」表現の一ローカルな表現法に過ぎないとするべきでしょう。実際、西洋近世の遠近法や陰影法は西洋内部においては印象派によって解体させられていき、とどめはセザンヌによって「奥行き」の意味そのものの改変が断行されたのでした。

セザンヌにおいては、「奥行き」は空間の「深さ」の問題として捉え返され、かつ絵画表現の枠を超えて、次のようなテーゼを獲得するに至りました。すなわち

「自然は人間にとって、深さとして存在する。」


僕の興味はセザンヌ以降にあります。セザンヌ以降、この「深さ」の問題はどうなっていったのかということですが、僕が現在獲得している結論は、「ほとんど何の展開もなかった」ということです。

この件について、最近二人の水墨画家と認識をほぼ同じくしました。一人は海野次郎という奥多摩在住の50代の画家で、彼とはいわゆる現代美術(芸術)批判の一環として、現代の表現における「奥行き・深さ」認識の欠如ということを確認しています。もう一人は岸野魯直という、関西在住の60代の画家ですが、去年出会った人ですが、この人も、「セザンヌ以降は、ジャコメッティにいくらか展開していこうとする動きがあったが、写実の発展にほとんど見るべきものがない」という見解を表明されており、それを聞いて僕も得心するところがありました。


セザンヌ以降、「奥行き・深さ」認識が展開されない、もっと言えば現代社会がその主題を喪失していくのは、最近の流行語でいえばグローバリゼーションの動き、古い表現では「資本(貨幣)の普遍化運動」によって、世界の在り方が平面化していく、あるいは奥行きを喪っていくということの現われであると考えられます。

したがって、今ここで「奥行き・深さ」ということに拘るということは反時代的・時代錯誤的な構えということになるのでしょうが、しかし僕は、団塊の世代の末端に位置する人間として、「自然は人間にとって、深さとして存在する」というテーゼを信じたいと思います。

信じて、そしてその「深さ」ということをこの時代に再提示していくことを試みたいと思います。それが、僕が言うところの「美の全体性」を奪還していく回路であると思うからであります。