「色は力である」ということ

今やっているNHK朝の連続テレビ小説「純情きらり」を近年になく飽きずに見ている。最初は登場人物が着ている着物がなかなかいいなと思って、それに見入っていた。聞くところによれば、意匠係の人がこだわっていて戦前の着物をあちこちから集めてきているのだそうである。

よく見ていると着物だけではない。洋服もなかなか魅力的である。模様とか色とかに気持ちをくつろがせてくれる雰囲気があるし、仕立てなんかも結構しっかりしていそうである。そういった着物や洋服に身を包んだ俳優さんたちがいつにもまして清潔感があり、時に愛らしく、また立ち居振る舞いにもつつましやかな気品を漂わせたりする。

何よりもドラマのクォリティがワンランクグレードアップしたようにさえ感じられるのだから、お茶の間向けの番組とはいえ、やっぱりディテールに神経を配ることは大事なことなのである。

知り合いの中年の女性との話の中で、彼女がこんなことを言った、「今の女性には花がない」と。
言われてみて、そうかなと街を行き交う女性たちを頭に思い浮かべてみる。

確かに、まず色が、何か強く訴えてくる色がないという印象がある。そう思いながら「純情きらり」を見ていると、戦前の着物や洋服には色があると言わせるものがある。その色(や模様)を着こなすというところで、いわゆる「女前」が上がるようである。つまり女性たちに「花がある」のである。

では現代の着物や洋服には色がないと言えるのだろうか。そんなはずはないと思い、その女性の発言に最終的には同意することを控えて、とにかく街に出てみることにした。

街には至るところでいろんな色があった。あったというより、あふれかえっている。パステル調のものも原色系のものも、ありとあらゆる色がけばけばしく街を彩っている。そして女性たちが着ているものは、というと、これもやはり色とりどりということができるが、どうもイマイチインパクトが弱いというか、女性を「愛らしく、魅力的に見せる」衣服というのになかなか出会わないのである。

そして街を離れて、改めて街とその中を行き交う女性たちを思い返してみると、頭の中のイメージはなんだかグレー一色につぶされたふうなのである。これはどういうことなんだろうか。やはり結局、件の女性の言うところを認めよということなのだろうか。

戦前の着物や洋服と現代のそれとはどこがどう違ってるのだろうか。件の女性はこうも言った、「街には色なんかありはしないのよ。色のような見せかけがただ雑然とひしめいているだけなの。」街にあふれているあのけばけばしいものが「色」でないとしたら、あれは一体何なんだろうと僕は考えた。

そうか、あれらは要するに単なる「刺激」だな。単なる「刺激」であるから、それが視界を遁れるとただちに消え去っていくわけだ。なぜ消え去るかというと、刺激が脳中枢に蓄積されるまでの力が不足しているからである。ということは、「色」というのは、本来なにがしかの力を有した現象を言う、ということなのかな。そこまで考えて、そうかと自分の中で蛾点できたことがある。

たとえば花がきれいだと感じることの中には、その色が美しいと感じることも含まれているにちがいないが、その「色」として感じられるところの事柄は、ある「力」の現れであるということだ。

そういうふうに考えると、自然物の色がなにがしか記憶に残っていくのは、自然物の色にはそういう力があるからだと解釈できる。そしてその力のはたらきは、実は人間の心身を癒していく力でもあると、僕は自分の中でそう推測するに至った。そのような力が、戦前に作られた着物や洋服にはある。

しかし現代の着物や洋服に見出す機会はとても少なくなった。「現代の女性には花がない」とはまさしくこのことを言うのである。