「健康」について
お金で買えないものはいくらでもある。さしずめ「健康」などはその典型的なものだろう。「健康」もお金で買えると思っている人もいるかもしれないが、それはどういう「健康」なのだろうか。たとえばアスレチッククラブに通うとか、健康医療器具をコレクションするとか、「〜によく効く」とかの高価な医薬品を飲み続けるとか、かかりつけの病院で定期健診を受けるとかで得られる、もしくは保証される「健康」のことをいうのだろうか。しかしそういったことは僕などには、むしろ「不健康」を買わされているように思えて仕方がない。

僕自身のことで言えば、お金が無くなってからなんだか随分身体が健康になってきたような気がする。元々僕は「健康」という言葉が好きでなく、不健康・不健全志向派だったので、最近の「健康」状態にいささかのとまどいを感じているほどである。けれども「不健康」であるために必要なお金がないのだから、「健康」であらざるをえない。そうすると、50余年の人生の中で初めて自分の生き方の上での節操を変更せざるをえないという事態に陥って、気持ちの整理を余儀なくされている今日このごろなのである。

具体的に言えば、まず煙草が吸えなくなり(買えなくなり)、夜更かし深酒ができなくなり(二日酔いに苦しむこともなくなり)、夜は12時前には睡魔に襲われ、朝は鳥のさえずりで目が覚まされ(早寝早起きは歳のせいか)、朝食は食パンに緑黄色野菜とたんぱく質および糖分を適度に採って1日が始まるのである。外食する余裕がないので、レストランや料亭の化学調味料を使ったわけのわからない味付けの料理を食べることもなくなり、食事はもっぱら近所の農家で直販している野菜がおかずのメインとなる(といってもベジタリアンではないので動物性たんぱく質も適度に摂っている。ただし外国産の食物はいかに安価でも食べない。どんな化学薬品が使われているかわからないという理由で)。

僕のパートナーは、食べ物は何でも旬のものを食べるのがよいという考え方の人なので、僕もその考え方に付き合わされて旬の間はほとんど毎日同じものを食べるのだが、飽きるということがない。というのも旬の野菜や魚は確かに美味いからなのだが、特に野菜は、煮物にしてもダシはほとんど使わず、調味料は塩、酒、味醂、醤油、甘煮の場合は砂糖少々で間に合わせて、それでも野菜がこんなに美味いとは思わなかったというぐらいのできになる。スーパーに売っている野菜のように水っぽいのではなく、ちゃんと自身の個性を持った食材であれば、ごくシンプルな調理法でも充分においしく食べられるのである。

旨いと感じながら食べるということの中には、心身が癒されていくような感覚がある。旨いと感じることは身も心もくつろいでいくということであり、くつろぎの中に浸るということはある「豊かさ」を体感することである。その旨さの元は食材の個性であり、その個性は命の発露としてある。だから、命があるということあるいは命に触れるということが心身を癒すのである。それはお金があって初めて手に入れられるものではなく、少なくとも僕の場合は、むしろお金がないという状況に至って初めて了解されてきたことである。

「健康とは何か」ということを、僕は改めて、自分自身に向かって問い直さなければいけない羽目に陥っている。とりあえず今、僕が言えることは、「健康とはお金をかけずとも豊かさを感じながら生きていける」ということである。お金のかかる「健康」はむしろ不健康である。あるいは「何事につけお金がなければできないと考えるのは不健康な状態である」と敷衍しておこうか。今やその不健康に、日本国民が大挙して向かっていってるように僕には見えてきている。