「工芸的視点」について(3)
自分の意思通りには決して動いてくれない外的世界、その領域に存在する人なり事柄を「他者」と呼ぶとしたら、その「他者」とどういう関係を結んでいくかということが、ここで言う「技法」ということに関係してくる。人間同士の関係であれば「マナー」と言い換えてもよい。

ここで改まって「他者とはどういう存在か」ということを意識すると、実はこれが、とてもあいまいで、難しい問題だということがわかる。たとえば哲学の領域でも、レヴィナスなんていう哲学者が「他者論」というのを得意なテーマにしてるみたいだけれど、なんだかもってまわったような議論をしていて、どうもなあという感じがある。

西洋世界では「他者」の定義がそれほど難解なのだということとも言える。なぜそうなのかというと、そもそも「他者」という概念が西洋の思惟にはなかったからなのである。その西洋の考え方に追随してきた日本にももちろんない。


たとえば「私は何者か」という問いに対して、自分のアイデンティティとかルーツとかを探るという方向で答えを見出していこうとするのが一般的である。つまり前提となる原理は飽くまでも「自分」もしくは「自己」である。そこでたとえば「私は日本人である」というのを答えの中に含むとする。では「日本人とは何か」と問うてみる。「日本の国籍を持つということ」が最大公約的な答えだろうか。では「日本とは何か」と更に問うてみるとどうだろうか。

日本という国は、だれがどこでどう規定ないし定義しているのだろうか。日本国憲法だろうか。日本国憲法にはそんなことは書いていない。しかし、第一章は「天皇」の意義とか役割とかが規定されている。その第一条でいきなり「日本国」とか「日本国民」という言葉が無定義のままに登場してくる。これは、裏読みをすれば「天皇が統べる国を日本と規定する」と言ってるのと同じことである。天皇に主権があるとは言えなくなったから「象徴」という言葉でカモフラージュしているだけである。


要するに日本という国は、日本人を自称する集団が地球の一角で勝手に日本という国を唱えているだけのことである。そしてだいたいこの辺が自分たちの領土だと主張しているに過ぎない。ここには「他者」もしくは「他国」という概念が欠けている。

これは別に日本だけを批難してそう言うのではない。西洋諸国を含めて、そもそも近代国家の成り立ちそのものが「他者(他国)」概念を欠落させているのである。それで拉致事件とか竹島問題のようなことが起こったりするわけだが、そういった国境侵犯にかかわる事件というのは近代の病であると、僕が出会った在日朝鮮人の青年が言ったことがあったが、その病根は「他者」概念の不在ということだろうと僕は思うのである。


日本国憲法の前文では「他国」という言葉が2回使われている。一箇所は「われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて」とあり、もう一箇所は「自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする」とある。
 一方はせいぜい「無視してはならない」とされる「他国」であり、他方は「対等関係に立つ」相手としての「他国」であって、どちらも「自国」の成り立ちそのものにかかわるところで表明された「他国」認識ではない。つまり、これは単に体裁をかまっただけの表現であって、「他国」不在の表現でしかない。

以上、工芸的視点からする近代国家論の要旨です。工芸には「作り手」と「使い手」といういわば「自己―他者」の関係の中で成立する構造があります。言い換えれば、他者なしに自己は成り立たないというのが工芸的な自己認識の基本であるということです。とはいえ、従来の工芸における「他者」の意義は、「私もあなたも同じ」という同朋意識を強調するような方向で捉えられてきたところもあって、これが工芸を保守的な文化として感受させる要因ともなってきました。

工芸のこれからは、そのような同朋意識的な「自己―他者」関係から、相克的であるとともに価値交換的な関係として捉え直し、その上に立って新しい価値を生み出していくジャンルとして立て直していくことが必要ではないかと思っています。