「芸術」批判(2)――「民芸」の意義について
前回のイスラムの王様のエピソードが意味しているもう一つのことは、「美しいものを作るのは誰か」ということに関して、いうまでもなくそれは王様、または王様が君臨している国家であったということが言えると思います。

言い換えれば、かつては「美の創造主体は権力を有する者もしくは国家であった」ということです。これが、ビジュアルなものづくりが「美術」と「工業」と「工芸」に分離される以前の美的創造に関する実状です。このことは、日本を除くアジア地域においてほとんど当てはまると思います。

日本とヨーロッパにおいては、中世期以降は国家だけではなく、封建領主(大名)とか寺社・教会、富裕商人など、富を管理する立場にある人間や組織も美的創造の主体の役割を担いました。いわゆるパトロンです。しかしこれらの人間や組織も広い意味での国家、またはなにがしかのシステムを有する共同体と見なすことができます。そして実際の制作に当たった人たちはなべて「職人」と呼ばれ、共同体の身分制度の中では実質的には底辺階層に位置していました。
ヨーロッパでは19世紀に入って美の創造の主体が個人に移ってきて、芸術家や美術家という職業(実際に食えていけたかどうかは別にして)が発生してきました。日本ではようやく19世紀末〜20世紀初頭ごろに、個人的な美術家とか工芸家という職業概念が西洋から入ってきます。

しかし日本では、美の創造の主体をめぐる話題で、独創的な見解が表明されました。それが大正時代に柳宗悦とその取り巻きが提唱した民衆的工芸、いわゆる「民芸」です。民芸派の人たちは美の創造的主体として、「国家」に代わって「民衆」を提示したのですが、それは世界に例を見ないという意味で独創的な思想であり、芸術観であったということができます。
民芸は今でこそすっかり形骸化してしまいましたが、それは、民芸を担った人もその同調者も、基本的には西洋近代の個人主義に基く芸術思想を価値基準として民芸を意義付けてしまったからです。

たとえば「個人作家」ということを否定して「無名で無欲の職人」としてのものづくりを称揚しましたが、そのような図式を提示すること自体が近代的な発想(あるいはせいぜいその裏返し)でしかありません。それで結局個人作家を輩出してしまったという事態を、自己撞着として独り演技して、酸欠状態に陥ってしまったわけです。
民芸が凋落したもうひとつの理由として、「民衆」概念の空洞化ということがあります。つまり「民衆」とは誰のことをいうのかといった時に、民芸派の人たちが望んでいたような「民衆」を現実の世の中に見出すことができなかったということです。

「無名で無欲の職人」に甘んじようなどと考える「民衆」など現実にはどこにもいません。ごく一部の人間に民芸の思想に感化されて職人志望をする人がいますが、そういった人たちは「民芸思想を実践しようとした」という点で、ある意味でエリートであり、民芸思想というひとつの観念に生きようとしているにすぎないのです。
「民衆」の実体を指し示すことはできません。しかし「国家」という用語に対峙する用語としての「民衆」は定義することが可能だと思います(「国家」の定義が困難であれば、「民衆」を定義することも困難になります)。

これは論理的な操作の問題なので、「国家」や「民衆」の内実は何であるかということはどうでもいいのです。ただ、「美的創造の主体としての国家が成り立つならば、国家に対峙する形での美的創造の主体を設定することが可能である。その形式的主体を「民衆」と定義する」というにすぎません。しかしこの命題を発見したことこそ、反近代思想としての民芸のもっとも意義深い点であると思うのです。