「科学」と「アート」の関係(もう1回続)

アートを志す人たちはその基礎的な訓練としてデッサンの勉強を課せられるが、予備校が教えているデッサンなんて、僕などはとても気持ちが悪く感じられる。ああいうデッサンが描けるからといって、それが何になるんだろうか。

石膏デッサンがいくら上手くなったって、ものがよく見えるようになるわけでは全然ない。


デッサンということに関して僕が興味を惹かれるのは、たとえばダ・ヴィンチとかミケランジェロとかが人体を描くために死体を解剖して、肉体の中がどうなっているのかを知ろうとしたというようなことだ。

今の人でも、形を捉えるためには見えないところがどうなっているかをちゃんと調べておいた方が良い、というぐらいのことは言う。

それは何故かと言うと、ものの形がどのようにして成り立っているかについての興味がなければ、デッサンという行為が成立しないからである。

つまり、デッサンとはものの形を成り立たせている「理」を探っていくことだ。描き手がどういう方向でデッサンを追求していくかということは、形の成り立ちにどういう「理」を見出していこうとするのかということと同じである。

そしてその上に「アート」が成立すると考えるならば、アートにおける創造行為とは、作者にとっての「理」の追求あるいは表現に他ならず、そしてその意味でサイエンス(科学)であるとも言える、と僕は思うのである。


ただし、僕が言う「理」というのは西洋近代科学が立てる「理」とはちょっと趣きが違う。

西洋近代科学が立てる「理」は、現象を数量化して観測し、得られてくる数値関係の中に見出していこうとする「理」であり、前々回にも書いたように、数値は抽象化された現実である(そしてその抽象性が西洋科学に暴力的性格を帯びさせる)という意味で「抽象的な理」でしかない。

これに対してアートが立てる「理」は、いわば身体で感じ取られる「理」であり、数値や論理による表現を必ずしも必要としないような「理」である。
  
(ローレンツやアインシュタインの主張する質量が増加すると考えた場合の電位と速度の関係

僕が言いたいことは、要するに、工芸というのがまさしく「身体によって感じとられる理」を表現したり、その基礎の上に成り立ってきた造形ジャンルだということである。あるいは、そういう方向で「工芸」の意義を捉えていかないと、今後、工芸の存在意義は「フジヤマ、ゲイシャ」と変わらんものになっていくしかないのでは、ということである。

僕は今、工芸が求めていくべき「理」を「自然の合理」という言葉で表現していこうかと思っている。そこで、「自然の合理」とは何かということが問われてくるだろう。それに答えていくための準備を、今ぼつぼつと始めていこうとしているところだ。それこそが僕にとっての、「サイエンスアート哲学」となるはずのものである。(この項、終り)