「科学」と「アート」の関係(続)

「科学」の話題を出したのは何でかというと、前回も書いたけれども、僕は個人的には「科学」も「アート」も根本は同じ事柄だという考えを持っていて、しかもそれを個人的見解に終わらせるだけでなく、これを是非とも一般的に認知されるところまでもっていきたいと思っているからである(もちろん、僕が生きている間は無理だと思うけれども)。

現状では「科学」と「アート」は正反対のものと思ってる人は結構多いんじゃないでしょうか。でもそれはすごく不幸なことのように思うし、人間として生まれてきて、本来享受できるはずの「人生の喜び」の半分は逃しているような気がする、「科学」側の人も「アート」側の人も。なんでそういうことになったかといえば、学校教育と「科学」の側の人たちに責任の大半を押し付けちゃおう。

 = ...?

だいたい「科学」というと、西洋の近代のものと思わされてしまっているところが間違いの大本だ。西洋近代の「科学」というのは、観察とか実験とか理論とかを世界中の誰でもが共有できるような形式で記述するからどこでも通用することは確かだけれども、それが意味していることは、中味のことは不問に付しているということだ。

「アートが好き」系の人は、どっちかというと中味に興味を持つ傾向がある――たとえば「人はいかに生きるべきか」とか「美とは何か」とか――けれども、西洋近代の「科学」はそういうことは問題にしない。そこで、西洋近代の「科学」がやってることがなんのことかちんぷんかんぷん、ということになるわけだ。
Art.......???


僕は「アートが好き」系の若い人に、時としてこんな話をする。「今、向うに見えている1本の木とあなたとの関係を、「科学」はたとえば〈30mの距離がある〉というふうに記述する。しかしその30mという数字(量)があなたにとってどういう意味があるのか、というと、実はほとんど意味がない、というのが正直なところではないだろうか。


距離は30mしかなくても、その間に巾10mの川があって、その木のところまで歩いては行けないとしたら、30mという数字(量)にどんな意味があるというのか。あなたにとって重要なことは、その木にどのようにして行き着くことができて、木になっている果実を手に入れることであるとすれば、その木に至るための方法をあれこれ考えるということが、あなたと木とのリアルな関係に他ならず、そしてそれを考えていくことのなかに、あなたにとって必要な「科学」が含まれているのです。それはとりもなおさず、あなたにとっての「アート」でもある」というふうに。


(ギムナジウム生徒 パウル・クレーの幾何学ノートより 1898)

アート系の人の基礎訓練とされるデッサンの意義についても、こう説明する。「デッサンというのはものの空間的な在り様をつかんでいく訓練であるから、ものごとを成り立たせている〈理〉を探り出していく行為といえる。そういう訓練を通してあなたはあなたの〈理〉を見つけ出していけばいいわけだ。それがあなたの「科学」であり、「アート」である。」

そう言うと、予備校なんかで受験勉強でデッサンをやってた人たちは、そういう考え方があるのかと、「目からうろこ」といった感じで僕の話を聞いてくれたりするのが、僕としてもうれしかったりする。

そういうわけで、ことさら「サイエンスアート」という特殊なジャンルを作らなくても、元々アートはサイエンスであるし、サイエンスはアートに他ならないものである、ということになるのです。