「科学」と「アート」の関係

10月4日付朝日新聞の「天声人語」に、大野乾(故人)という遺伝学者が生前に立てていた仮説のひとつが紹介されていた。

文章を引用すると、「遺伝子こそが美感を左右すると説き、ニジマスやブタ、ニワトリの
DNAの配列を音符に置き換えた。妻の翠さんにピアノ演奏をたのみ、これはバッハ風だ、いや、ドビュッシーに近いと分析した。」というような人である。

僕は、こういうのはすごく「美しい」話だなと思う。さもありなんことだと思うし、いろんな動物の
DNAの音楽というのを是非聴いてみたいものだと思う。

ところがそういう仮説は、生物学の世界では「非科学的」と異端視されたのだそうである。また、この大野理論を実践してオオサンショウウオの遺伝子音楽を作った生物学者の試みに対して、「科学の領域を外れている」という批判があったとのことである。           


(『大山椒魚ウオッチング』hpより)

しかし僕は大野博士のような試みこそ本来の「科学」であり、アートだと考える。逆にそれを「非科学的」とか「科学の領域を外れている」と判断する、そういうのが「科学」であるとするなら、そんな「科学」など犬に食われろ、と思ってしまう(犬にしてみれば、そんな「科学」など食いたくもないと思うかもしれないが)。

世に「サイエンスアート」と呼ばれるジャンルがある。「科学(または工業技術)」と「アート」を融合させることを目指した造形表現を行うジャンルである。僕は個人的には「科学(サイエンス)」も「アート」も根本のところでは同じ事柄だと思っているが、それをきちんと言って他の人からも同意を得るには「科学」と「アート」各々を定義し直していく必要があると思っている。

それで、サイエンスアート領域の、主として「サイエンス(科学)」の側にいる人たちの集団とかかわったことがあり、それをいい機会と捉えて、「科学」と「アート」をめぐって、インターネット上で徹底的な議論を仕掛けていこうとした。ところが、「科学」の側の人というのは議論に決して乗ってこようとしないんですね。

なんでかなと、しばらく孤軍奮闘しながら考えて分かったことは、「科学」の世界では、自分の研究結果が認められるということは、学会での承認を得なければいけないということがあって、そのためには、しっかりと計画された実験データに裏付けられた実証性と、厳密な論理構成が必要となる。

つまり、うっかりしたこと、いい加減で調子のいいようなことは、言っても認められないということがあるのですね。だからインターネット上で放言するというようなことには、乗ってこないわけだ。


僕は随分と長い間「アート」の側の人たちと付き合ってきて、僕自身も含めて周りにはいつもおっちょこちょいで放言大好きな人がいて、いつ果てるとも知れない議論を繰り返してきたから、人間とはそういうものだと思っていたけれど、必ずしもそうではないということを、「科学」の側にいる人とのかかわりの中で初めて思い知らされた。

「科学」と「アート」の間には、実は深くて暗い溝が横たわっているということだが、そのことをたいして深く認識もせずに「サイエンスアート」なんてことをノー天気に言ってるのは、もっぱら「科学」の側の人たちなのだと、僕は断言したい。

(つづく)