「科学」と「アート」の関係 |
10月4日付朝日新聞の「天声人語」に、大野乾(故人)という遺伝学者が生前に立てていた仮説のひとつが紹介されていた。 |
(『大山椒魚ウオッチング』hpより) |
しかし僕は大野博士のような試みこそ本来の「科学」であり、アートだと考える。逆にそれを「非科学的」とか「科学の領域を外れている」と判断する、そういうのが「科学」であるとするなら、そんな「科学」など犬に食われろ、と思ってしまう(犬にしてみれば、そんな「科学」など食いたくもないと思うかもしれないが)。 |
なんでかなと、しばらく孤軍奮闘しながら考えて分かったことは、「科学」の世界では、自分の研究結果が認められるということは、学会での承認を得なければいけないということがあって、そのためには、しっかりと計画された実験データに裏付けられた実証性と、厳密な論理構成が必要となる。 つまり、うっかりしたこと、いい加減で調子のいいようなことは、言っても認められないということがあるのですね。だからインターネット上で放言するというようなことには、乗ってこないわけだ。 僕は随分と長い間「アート」の側の人たちと付き合ってきて、僕自身も含めて周りにはいつもおっちょこちょいで放言大好きな人がいて、いつ果てるとも知れない議論を繰り返してきたから、人間とはそういうものだと思っていたけれど、必ずしもそうではないということを、「科学」の側にいる人とのかかわりの中で初めて思い知らされた。 |
「科学」と「アート」の間には、実は深くて暗い溝が横たわっているということだが、そのことをたいして深く認識もせずに「サイエンスアート」なんてことをノー天気に言ってるのは、もっぱら「科学」の側の人たちなのだと、僕は断言したい。 (つづく) |