工芸雑誌の不可能性

20代の後半、僕はある美術業界誌に勤めていた。たった一人で編集をやってた女の子はちょっとフェミニズム寄りの考え方をする子で、よく議論したものだが、ある時彼女がなにげなく洩らした言葉が妙に印象に残っていて、30年近く経った今でも忘れないでいる。どういう発言だったかというと「食えなきゃ意味がないよ」というものだった。

そうか、「食えなきゃ意味がない」という言説がはばをきかせる時代がこれからやってくるんだなということをその時ふと思って、それで覚えているのだ。時期は1970年代後半。その数年前は、食えるか食えないか分かりもしないことに喧々諤々と議論して、時間とエネルギーを浪費していたものだった。そこでは「時代の大義」とか「生きる意味」とかを求めていくことが、食えるか食えないかということよりも重要な問題であったのである。

「食えなきゃ意味がない」という言説が我が物顔にふるまう時代がいよいよ到来したということを、最近とみに感じ始めている。言い換えれば、どんなことでも、それが商品(お金に換えられる)になりうるかどうかということが価値判断の基準になり、商品価値を持ちそうにない言説は闇から闇へと葬り去られるということである。

だから、思想の自由とか表現の自由とかが憲法で保証されていて、どのような考え方であれそれを陳述することについては自由であるからいろんなことが発言されていいわけだし、インターネットを使えばそれを世界中に伝えることができるようになっているにもかかわらず、最近は誰も彼も似たようなことしか言わなくなってきている、という印象なのである。

どうしてそうなってきてるのかというと、暗黙のうちの自主規制が働いていて、ちょっと毛色の違う発言をしても商品価値がなければ誰も相手にしてくれないと観念して、発言をしなくなるわけだ。発言するにしても、それに要するエネルギーは無駄に消尽されることを前もって了解しておかなければいけない。しかしそういう無意味なことはやってもしようがない、と考える傾向が出てきているのである。

そうしてある種の言説(お金にならない言説)が気がつかない内に圧殺されていく。こういう状況を僕は勝手に「戦時下」と定義している。

だいたい「ビジネス」という言い方そのものが、「人間のやることはお金になること以外は意味がない」というニュアンスを含んでいる。事業とお金の関係は、昔ならば社会的に有益な事業を行えば結果としてお金がついてくる、という感覚だったのが、「ビジネス」というとお金をかせぐためにどういう事業を起こすかというような、そういう感覚になってきている。つまり、建前と本音が昔と今では逆転しているわけだ。あるいは「貨幣が自律運動を始めた」とか「資本主義システムが自己目的化した」とか言ってもいい。

雑誌というものも、昔ならば時代や社会の課題をめぐって「論陣を張る」ということが雑誌に要請される役割だったのが、現代はそういうのはアナクロにしかすぎず、商品を羅列するカタログ雑誌としての機能を残すだけである。だから今、仮に「工芸」分野の専門雑誌を作ろうとしても、可能性があるのは「工芸カタログ」の体裁をとった雑誌しかない。そこに突破口はあるのだろうか。

今や情報は瞬時のうちに世界を駆けるとか、情報公開の時代とか言われながら、本当に必要な情報はかえって隠蔽されていってはしないだろうか。「情報化社会の逆説」という発送は陳腐だろうか。少なくとも僕自身は、今僕の目の前に咲いている一輪の花の中に、僕にとって本当に必要な情報が埋もれていると、思うことにしている。