『祖母のこと』 
 
 「どぶ川の中に投げ捨てられた本がいつまでも流れて行かないで、ページがゆらゆらとしているのをずっと見ているのは辛かった」と祖母(故人)が話していたことがある。私はその光景を見たわけではないけれど、幼年期以来、頭の中でそれはしっかりとしたイメージを結び続けている。


祖母は大正4年、東京の横網で版木彫り職人の長女として生まれたが、幼いときに父親と死に別れ、母親も他家に嫁いで四人の兄妹は散り散りになった。祖母を引き取った養父は女学校の住込み用務員をしていたため、自身は小学校しかでていないのに当時の女学生文化をよく知っていて、周囲にはさも自分が女学校出のような口ぶりで話していた。

彼女は確かに知識や学問、とりわけ文芸への憧れがあったようで、小説などもよく読み、好きな詩を私に読んで聞かせたりしていた。また、「私が東京の古いこと、全部お前に話しておくから。私が死んだら昔のことを知っている人がいなくなってしまう」というのが口癖で、自分が子供の頃、大正から昭和初期の頃の思い出話をくり返し私にきかせた。
 
《初宮参り》
 

一方、祖父はほぼ文盲といってよく、自分の名前すらまともに書けないような人である。この人も子供の頃に父親を亡くし、群馬の山奥から母親に手を引かれて東京にやってきた。とくかく荒っぽい人で、祖母が本など読んでいると、それが気に入らなくて、箪笥の中に隠し持っていた本を家の前のどぶ川に捨てたことが何度かあったらしい。
 
ある時祖母が一冊の文庫本を取り出して、「これは男と女のいろいろのことを描いた小説だから、お前にはまだ早いけど、13歳になったら読んでいいからね、ここへしまっておくから」と言ってまた大事そうに箪笥の引きだしの奥へ押し込んだ。それは瀬戸内晴美の『夏の終わり』だったのだけれど、孫が13歳になったらこの小説を理解できると思っていたのだろうか。

 
私の実家は袋物屋でおもに財布や小銭入れなどの製造販売をしていたので、両親ともに忙しく、幼年期の私は一日中祖母と遊んですごした。

お手玉、おはじき、切り絵、お絵描き、童謡、草摘みなどの遊びを延々繰り返し、そしてお出かけと言うと大概、浅草だった。仲見世で団子や各種のみやげ物に目を奪われていると「お参りが済んでから!」とたしなめられる。

「頭がよくなりますように、お腹をこわしませんように」煙をめいっぱい体にすり込んだあと、観音様にお賽銭を上げてぱんぱんと手を打って、あとはお楽しみ。鳩に豆をやったり、あんみつをたべたり、商店街を冷やかしたりして一日過ごした。
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折々の風景 
『手漉和紙大鑑』  
多彩な冬
祖母は若い頃、和裁の「お針子」として働いていたので、結婚してからも家計の足しに針仕事を続けており、呉服屋から時々仕事をもらっていた。生来のおせっかいというか世話焼きというか、親戚中の着物の仕立て一切合財をもひきうけ、年寄りの寝巻きから孫達の浴衣、晴れ着等々、常に何かしらの仕立物をしていた。
 
学校から帰ってくると、祖母が今何を縫っているか、見るのが楽しみである。

ぱっと目のさめるような染めや刺繍、絞りの反物が広げられていると、思わず「それ誰の着物?」というそばから生地に手がのびるのをぴしゃりと遮って、「ランドセルを置いて、手を洗っておいで!」と叱られる。念入りに石鹸で手を洗ってくると、ようやく反物を触らせてくれる。これは産着のおめでたい模様、粋筋の柄、江戸好みの渋い縞、男物の結城のお対、とっても高価な黄八丈、描き疋田、一本どっこの博多帯…などの単語がなつかしく思い出される。
 

あるとき祖母が得意顔で私を手招きした。「ほら見てごらん登美子、大島の端切れで座布団作ったの。触ってごらん。これが大島の手触り。つるつるしてるだろ?」「ほんとだおばあちゃん、つるつるしてひやっとするね。」「着ると暖かいんだよ・・・」もっとも、一族のうちで大島の着物など着られた者は一人もいない。おそらく、呉服屋の頼まれ仕事で余った端切れをくすね、それを溜め込んで座布団をこしらえたのだろうと思う。
 
 

〈どぶ川のほとりにて〉
 







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思えば、幼い頃の私は、全身全霊で祖母を受け止めてしまったのではなかろうか。手仕事と素材の良し悪しにうるさくこだわること、他人の口調や所作から生まれ育ちをとやかくいうこと、歴史や古臭い言葉の世界を身近に生活すること。それらの習性のもとを辿ってゆくと、かならず祖母との思い出に行きあたる。一家そろって職人の家に生まれ育ち、祖母だけは私が進学するのを喜んだ。
 
しかし彼女が無学で乱暴者の祖父とどうしてずっと一緒にいるか、いつも不思議だった。あるとき父が「うちは爺さんも婆さんも子供の頃一家離散の憂き目にあってるから、「家」なんてものは無いも同然なんだ」と言うのを聞いて合点がいった。同じ悲しみを抱えたもの同士のつながりは、同じ喜びを分かち合ったもの同士のそれよりも、ずっと強いのではないか、と。
 
時々私は祖母の恨みを晴らすために仕事を続けているのではないかと思う。当人は恨みなどと思ってもいなかったかもしれないが、幼心に繰り返し聞かされたことは自分自身の経験以上に色鮮やかなリアリティを伴って増幅し、巨大な蛇のようにとぐろを巻いて心の底に住まっている。
 
慣れ親しんだ言葉や風景や習慣が消えていってしまう悲しさ、貧しさの中で押しつぶされる文化や芸術に対する憧れ。それでも、せいいっぱいの知恵と生命力で楽しみを見つけようとした女は、日本がまだ貧しかった時代、祖母だけではなかったはずだ。
 
故郷を離れ、仕事とお寺と家事と子育てとでむちゃくちゃになった今の私の生活を見て、祖母が生きていたらどう思うだろうか。「登美子、お前も酔狂なことだわねぇ」とでも言って溜め息をついたかもしれない。
  
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