発語と吃音-発音の起源についてー  

十年程前、たまたまTBSラジオ(荻上チキsession 22)を聴いていたら漫画家の押見修造さんが出演し若い頃、吃音(どもり)だったことを打ち明けていた。

吃音には、大きく分けて2タイプあり、一つは母音が出てこないタイプ。もう一つは連発型といって、同じ発音を多々羅を踏んで繰り返してしまうタイプ(テテテ、テーブルといった風に)。彼は母音が出ないタイプだったのだが、ある日
<裏技を見つけたという。それは、先ず子音から発し、子音を呼び水のように使ってスルッと母音に移行するという発語法だということ。

それまで漠然と発語の起源はきっと「母」音というくらいだから母音だろうと思っていた。でも、このラジオを聴いて瞬時に、いや子音だなと直感した。

 

三木成夫さんによれば、ひとが言葉を話すということは、人間工学的に言って異常な負荷をかける行為になるという。というのも、発声は、呼吸を止めなければならないからだ。とても不自然なことを犠牲を払ってやっていることになる。人類最初の発語に至っては、もう尋常じゃない脱吃音だったはずなので、これはもう事故の様、あるいは狂気の様だったと思う。(吉増剛造 in 足利より抜粋)

essay 
11/28  発語と吃音
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  医学の門外漢の僕が、何故「吃音」とかに拘るかというと、ひとつには、吃音が病的とか異常とかを超えて一つの障害であると同時に、ひとつの表現であるという理解の仕方による。そして、この障害に「こころ」が大きく関わっているだろうといった考えが重なる。

加えて、モノを作ることを生業としている自分にとって、何かを表現することの元始は、一体何処にあったのだろうということを45年間考え抜いてきたという事実がある。そして、このことは、言葉の発生とその構造が重なるだろうという理解も持っている。また、「発語」にしても「描く」にしても、人類が初めてそういった営為をもった時のことを再現したいというか、単純に知りたいといった思いが強くある。

そして、吃音が発声機能としての障害ではなく、心的な障害と考えた方が実相に近いといった感触もある。それは、僕が浪人中ガソリンスタンドでバイトをしていたとき、年下ではあったが先輩にあたるスタッフがいて、やたら僕になついていたのだが、このスタッフが重度の「ドモリ」だった。彼は、連発型と最初の母音が出てこないタイプの両方をもっていたので、第一声が出るまではとても難儀していた。ところが、その彼は、落語の「寿限無寿限無」の台詞を立て板に水といった風に流ちょうにまくし立てていたのだ。

吉増剛造 in Ashikaga 2019 artspace&cafeにて
恐らく、その彼のご両親は、彼の幼少期か児童期に既に現れていたであろう吃音を、発語の機能的な障害と理解し、それを解消、あるいは改善すれば吃音がなくなると考えた故にとった策が、長い行の落語を流ちょうに話せるようにすることだったのだと思う。でも、全く改善されることはなかった。何故かと言ったら、それは吃音が、機能的な障害ではなく、心的な障害だからだ。

心的障害を吉本隆明は、母胎における胎児の「上陸期」(魚類から爬虫類に進化し水棲から陸生へと移る過程に起きる、感覚器官と内臓器官の分離と、それぞれの連携システムの構築)に起源をみている。つまり、解剖学者三木成夫の解釈に基づき、「こころ」を感覚器官に関わる心と内臓器官が関わる心の総合とし、この二つの心の統合のバランスが崩れたときに、ひとは病む(あるいは異常となる)とした。

恐らく吃音も、ここまで遡行しないと、解けないのではないかと思われる。