フジTVとライブドア問題

結論から言って、フジTVとライブドアとの問題は、”Money Game”ではない。

今回の、ホリエモンとフジTV日枝会長による株争奪合戦を、大方のメディアは、”Money Game”という括りで伝えている。また、各放送局に出演するコメンテーターも同じようなコメントを繰り返しているように見える。

今のメディアの構造からして無理からぬ話だ。詰まり、この問題をその様に矮小化することで自分たちの旧態依然としたぬるま湯体制を是正しなくて済むわけだから。この様に、エコノミーな対応で白を切り通せると能天気に思っているのが、今の放送界だ。

確かに、今のメディアを支配しているのは”Money”かもしれない。それは、スポンサーがTVの視聴率という数字によって、自分たちの打つCMの既視度(造語です)を購買率にスライドするという算定法以外に、単位時間の単価を決める根拠をもたないからだ。それ故、TVで放映される内容と離れて視聴率が絶対的なるものとして一人歩きを始める。

逆に言うと、基本単位の放映枠に、何をどの様に入れられるか初めから決まっていることになる。それが「視聴率」という幻想の宿命だ。

となると、ここでも「効率」が最優先課題となり、割り振られる放映時間は、あらかじめ検討された視聴率という視聴者の「偏差値」から演繹される。民放は全て、この様な構造の上に成り立つ。

ものが実際に売れるかどうかの判断を、物理的なメディアの露出度を秤にして判断・決定するしか、現在のところTVを初めとする放送界は、CM効果の判断基準を持っていない。その点、ヒットラーが提起した「宣伝効果」と基本的コンセプトは同じで少しも進化していない。

しかし、この事態が、恒久的なものかと言えば、其れは違う。

(マル激トーク・オン・デマンドより)

WEBに関して言えば、今のところ、この”Money”の支配から逃れている。 

たとえば、様々な取材(ホリエモンと宮台真司のライブトークなど)は、4分半で切ってくれとか、編集側で視聴者の偏差値に沿った構成作りをしなければ・・・・などといった制約は受けない。従って、そこでの情報の受け取り方は、受け手の受信姿勢に任される。そのため、WEB上では、あくまでも局側の指向に沿った構成が許される。
事実、インターネット放送局「ビデオニュース・ドットコム」による「神保・宮台マル激トーク・オン・デマンド」は、2時間ぶっ通しで中継されている。
つまり視聴率という換金フィルター(幻想)を通さないで情報を流すことが出来る。また、受け手は好きな時に、好きなだけ受信できるし、分節して聞くことも可能だ。
この事実が、今起きている一連の旧メディア(フジTV)と新メディア(ライブドア)の問題の本質だ。

ブランドのTシャツを着て登場する常識のないお兄さんと、お家騒動の勝ち組として登場するくたびれた爺さんとの株の争奪戦といった、極めて矮小化した物語をメディアは演出しているが、事態の真相は、全く違っている。

もっと言えば、今回の騒動は、表層では”Money Game”の様に見えるが、実は、いつの世もそうである様に、新テクノロジーが引き起こす文化の変容、あるいは、社会構造の変換というのが実相だ。

こう書いているうちに、何と Soft Bank の孫さんがフジTVに肩入れをしたという一見えげつないニュースが飛び込んできた。

この後、事態がどう進展していくのか予断は許さないが、何れにしてもTVというメディアが、インターネットという新メディアによって変容を余儀なくされているという事態には、何ら変わりがない。
それこそ、孫氏自身が言うように、事態の真の姿は、ずっと先になってみないと理解されないだろう。

フジTV側の態度が、「敵の敵は味方だ」といった浅はかな転倒があるのでは?という指摘や、Soft Bank のやり方は、まるで「鳶が油揚げをさらった」とか「漁夫の利を得た」とか言われているが、これとてどうでもいい表層の戯言だ。
確かにホリエモンは悔しいだろうが、そういった流れが今の社会に必要とされていることは、誰よりも承知していて、それこそ「想定内」の事態だ。

(Yahoo! hpより)

ほんと、先のことは全く誰にも分からない世の中が来てしまった。僕らの世代には、一見複雑そうに見える出来事も、恐らく今の若い世代には、感覚的に極々当たり前の何ら不思議でも何でもない事に見えているのだろう。

僕の周りにも、今回の事態が全く理解できず、時代に印籠を渡されて退場を迫られている同世代の連中が沢山いる。

僕自身のことで言えば、「もうちょっと一緒に頑張ろうよ!」と上の世代を励ましたいのだが、でも理解できないことはもう生理的に理解出来ない事なんだと、最近は、いい意味で諦めている。でないと、励ますこと事態が、只のお節介で迷惑極まりない出来事として処理されてしまう。まっ、僕自身の感性も怪しいもんだ。

人も組織も、そして社会も、必ず「始まりと終わり」がある。いつまでも元気で生きて居続けなければならない理由もない。分からないということは、いけない事でも何でもないのだろう。残念だが、僕ら全員がフーコー並の今を読み解く「知」を獲得できる訳ではないのだから。

諦観とは、ある意味積極的な態度なのだと、十代の頃聞かされた記憶がある。

時代の転換期は、人に感性の転換を迫る。メディアのミスリードは、そんな「今」の鏡なのかも知れない。