「小倉遊亀展」を観た

 先週の土曜日、丸の内・大手町を抜け、懐かしい流政之の赤御影の現代彫刻を一瞥しながら近美へと急いだ。

最終日前日の土曜日ということもあって、館内は入り口のショップに群がる人々と重なりごった返していた。ここでもおばさ・・いや、ご婦人が元気だ。

失敗だった・・・・・・もっと早い時期に来れば良かった。

まっ、美術への熱意は歓迎すべきだ。人を掻き分け掻き分け気に入った絵を見つけ立ち止まる。

・・・・・やはり『浴女』が好い。

この絵と最初に出会ったのは、鎌倉彫の世界に入って直ぐ、職場の工房の棚に無造作に積まれていた美術全書だった。

裸婦を描いているのだから、作者は男の画家だろうくらいの当たりでその絵の中に入っていった。
意外にも作者が女性だったことを知ったのは、大分経ってからからだったように思う。

『浴女』...............それは、風邪を引くのでは?と思わせるような冷めた空間だが、湯船に貼られたタイルの方形の歪みで光の屈折を描き、お湯の存在感も見事だった。

25年経って本物を見たが、作品のスケールも質感もイメージとピッタリと重なった。

・・・・・・下手っぴだけど、い〜絵だ。

今まで僕は、静物画というやつに感動したことは無いが、小倉の描いた花や果物、そして器は、セザンヌばりの「クッ」とくる憎いデフォルメが加えられ、特に緑(緑青)の色使いがいい。

彼女の描く器は、どれもおおらかで、いつもその内には清々しい空気が静かにじっと佇んでいる。

「上手く描こう」などと一度も思わなかったに違いないと思えるほど筆は走っていない。
 「上手さ」が出ている絵など、はなから目指していなかったのだろう。

どういう訳か、小倉が「達者だ」と思えるのは、主題の脇に備えられた品々の描き方に視点を転じた時に気付かされる。そこだけが特別密度が高い。
 それは、コップだったり、蒔絵の香炉だったり、また着物の帯だったりする。それらの脇役が主役を喰っていることもしばしばだ。

何故そうした手法をとったのか定かではないが、恐らく「ヘタウマ」表現にある安易な開放感を嫌い、プロとしての自覚と責任から、節度を持った「自由」と画家としての厳しい姿勢を通したかったのだろう。
 そして、彼女は絵の本質が「うまさ」に在るのではなく、如何に自分らしく描くか・・・・・というテーマから外れることはなかった。

 大和絵は、当時紫式部が文学の世界で活躍していることから類推して女性が描いたものでは?といった見解を聞いたことがある。

あの野放図でおおらかな表現を見ると、案外そうかも知れない・・・・・などと本気で思ったりもする。

日本画の顔料を使い、欧米のスタイルを追う分裂した昨今の日本画壇の流れの中で、一度は彼女も同じ様な路線をとった時期もあった。

 しかし「日本画とは何か?」・・・・・・この本質的な問いに、小倉遊亀の作風は見事に応えていた。

そして、今回この『小倉遊亀展』を観て作者の表現が、所謂日本画の保守奔流を無理なく、 百才を超えるまで自然体で歩んだ軌跡を見たような気がする。

またもや女性の逞しさを思い知らされてしまった。