暴力の根源について   8月15日

 今日も15歳の少年に、6人家族の内3人が刺殺されると言う凄惨な事件が起きた。
 
 先回お話ししたように「ずし女性プラン推進会議」議長になったことで、自主的に委員の有志が集まり「女性問題」について話す機会をつくった。驚くのは、女性という切り口から見えてくる世界は、非常に多岐に渡っているということだ。話の中心は、もっぱらDV(ドメスティックバイオレンス)と呼ばれる、夫の妻に対する暴力に関してだ。話を進めていくと「暴力って何だろう?」という基本的な疑問が湧いてくる。暴力衝動は一体何処からやって来るのか?無性に知りたくなり、自分が一番信頼している思想家・吉本(隆明)さんはどう考えているのか、以前読んだ「対幻想」(春秋社)その他の書物をあさってみた。期待通り「暴力の根源」に関する発言があった。いつものように意表をつく内容に感服した。論旨こうだ。
 妊娠によって母体に胎児が宿ると、その母子の間に内コミュニケーションが成り立つ。生理的には、酸素や栄養が臍の緒を通して供給されるため、胎児にとっては理想的で安定した状態といえる。やがて外コミュニケーションの成立として出産をむかえる訳だが、その際、内コミュニケーションから外コミュニケーションへの転換が行われるが、これが僕らの予想を超えてハードな出来事なのだ。吉本氏は「母型論」の中で、内コミュニケーションから外コミュニケーションへの転換のところでは死と同型の構造を持っていると語っている。誕生と死が同じ構造を持つという指摘は、とてもパラドキシカルだが読み進んでいくとなるほどと納得させられる。以前、『死の瞬間』(キューブラー・ロス著)という、死を直前に迎えた人間のとる態度に関して、詳細に記述された著書が評判になった。それによると 、人が癌などの不治の病によって余命がわずかであることを医者から告知されると、一様に共通した反応を示すとある。その反応のパターンとは、まず、衝撃を受け、次に否認、それから怒りと憤りが支配する。ついで抑鬱(準備的悲嘆)、最終受容へと移行するということだ。同じように誕生は、まず最初外へ送り出されて誕生してしまったということに対して、つまり<なぜじぶんはこんな不安な外界に生まれてしまったのか>というような憤りとか後悔の段階。それからもうすこしたつと、<もう一度母親と親和の接触を与えてくれたら、生まれた状態を肯定してもいい>という、つまり内コミュニケーションを回復させてくれるならば生まれた状態を肯定してもいいぞという取引の段階。もう一つの段階として「いたしかたない」という諦めの受容の段階を想定している。

(1984年4月  次男 耕介)

 「出産は宇宙遊泳より困難だ」と言われる。誕生とは、自分の意志で産まれたわけではないという、胎児にとって強い暴力性を持って強制的に受容させられた「不本意」な出来事として、無意識の領域に深くその記憶を留める。ここに、人の暴力の根源的な契機を見る。        万が一、内コミュニケーションがしくじっていたとしたなら(妊娠時に母親が不安定で、極めてハードな状況に置かれていたなら)子供は、二重のダメージを受けてこの世に生まれ出ることになる。                  

 僕らの持つ誕生のイメージは、ハッピーに彩られているが、その本質は壮絶なドラマが展開されているというわけだ。「誕生」に暴力の根源を見ると言う考えは、優れた宗教や思想には自明なこととして認識されてきた事なのかも知れない。僕らがそれを見ようとしてこなかっただけということか。

 ストーカー、引きこもり、普通の少年の殺人、そして主婦による保険金がらみの身内への薬物投与(緩慢なる殺意)等、様々な次元の暴力の表出が、今メディアを賑わしている。
 生理としてのの役割が、子供の精神を決定づけてしまうという事実を認めるとしたならば、男にも今まで以上に女性の持たされる母親という役割に対してサポートの意識を強く持たなければならないだろう。

 _女の本質は気違いになることで、男の本質は女性になることだ_ こう言ったのは、フランスの思想家ジャック・ラカンだが、この言葉の真意を深く理解し直さなければならない時期に、日本もなったのかも知れない。

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