「テート・モダン考」 浅田 彰 (朝日新聞・夕刊・9月6日号)を読んで   9月15日

 相変わらず浅田彰の状況分析は、確かで面白い。こんな事を言うと、敬愛する吉本隆明氏のお怒りを受け「バカかお前!」と、叱られそうだが(氏は、蓮見重彦・柄谷行人・浅田彰を「知の三ばかトリオ」と言ってのけている)。しかし、浅田はそのデビュー作である「逃走論」以来、文化の最先端で起きている思潮を分析・整理するのが、実にうまく且つ当を得ていて感心する。浅田が言うように、現代美術に関して言うとその美術史観は、進歩史観にのった時代の思潮に沿ったものとして推移してきたが、ここへ来てその史観が急速に陳腐に成りつつある。
 
 表現の現場にいる作家達は、'50年代、'60年代のように過去の遺産を批判、解体するというコンセプトが、制作の主題として成立する「幸福な時代」だったが、今はその結果として混乱に次ぐ混乱を極め、制作の根拠を何処に置くか分裂状態というのが実体だろう。一方、それらの混沌の結果として生まれた「作品」を評価し、陳列する美術館側も危機感を持ち、今回紙面で紹介されたイギリスのテート・モダンのような現代美術館が新しい展示を試みている。それは、今までのところ進歩史観に立って展示を構成してきた美術館は、当然年代順に作品を並べて来た.しかし、その史観に疑いがでた現在、とりあえずそれは避け、ひとつの試みとして「歴史」「風景」「身体」「静物」という四つの主題に沿った展示に変えたと言う。たとえば「風景」のセクションの一部屋では、モネの睡蓮と、リチャード・ロングの壁面一面に泥をはね散らかしたペインティングが同居するという刺激的で奇怪な空間を演出しているという。これは、かってマルセル・デュシャンが、美術館に「泉」と称して便器を展示したことにも近い。特に現代美術の作家達は、表現の中心的な課題の中に「異化効果」を含んでいるので、美術館側の今回のような展示の意図的な変容は、展示空間そのものを重層化した異化効果で満たすことになる。作家自身は、この事態をどう感じることになるのか興味深い。過去の作品のコンテクストから、そのリアクションとして表現を成立させてきた傾向が強いモダンアートとしては、逆に表現の本題に素直にシフトできて望ましい事態かも知れない。

     

(富山県入善町・発電所美術館)

 浅田は続けて建築の領域での変容を述べている。それは、美術の思潮と同様、建築もモダニズムの洗礼を受け建築にとって本質的ではない様式性や装飾性を否定して、建築を機能一本槍に還元してきた。しかし、浅田が言うように今建築は、そのコンセプトは勿論、実際の現場でも「建築」から「改築」へと古い建物を解体せず、一部をしっかり利用しつつ、そこに新たな建造物を調和させつつ同居させるという建造法を取り始めたという。今回取り上げたテート・モダン現代美術館にしても、発電所を美術館として「改築」して造られたものだ。 日本でも同じような動きが既にあり、富山県入善町にも似たような美術館が存在する。昨年友人の華道家がそこでイベントをしていたのを見に出掛けたが、なかなか面白い空間が演出できていた。 


「天空の城ラピュタ」より

  
 いずれにしても、僕たちは今過去の遺物であれ廃棄物であれ、それらをリニューアルし、それらと同居、あるいは同調しつつ表現を成立させていく行為が必要とされる時代に生きているのかも知れない。イメージとしては、「スター・ウォーズ」や、宮崎駿氏の「風の谷のナウシカ」「天空の城ラピュタ」のような、過去と現在が混在化したスタイルを喚起させる。以前このコラムでも述べたように、表現の中に単一な時間の流れを取るのではなく、幾つもの時間軸を混在させることによって、フレッシュな空間を演出させる手法が時代の方からも要求されていることは事実のようだ。

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