「鎌倉彫名品展」を観て   10月15日

 この10月1日まで神奈川歴史博物館に於いて開催されていた「鎌倉彫名品展」は、鎌倉彫出身の僕にとってはとても興味をひかれる展覧会であった。鎌倉時代から近代に至るまでの陳列された作品群は、どれも素朴で数点を除いてみな「へたくそ」と言い切れるほど稚拙で愛おしいものばかりだった。。

 今言う「鎌倉彫」とは、戦後いわゆる鎌倉貴族と呼ばれていた趣味人が、サロン化して続けていたお稽古事を鎌倉の文化人達の支援で、今ある呈のお稽古産業の流れを造った際、造語された呼称と言って良い。それまでは彫木漆塗りという名で一般に流布されていて、「鎌倉もの」と呼ばれることはあっても「鎌倉彫」と呼ばれる事はなかった。 

 そもそも鎌倉彫のルーツは、維新の際、「廃仏毀釈」という神仏分離令なるおふれが発令され、寺院・仏具・経文などの破壊運動が起こった結果、それまで仏像や仏具を造っていた仏師達が職を失い、それまで培ってきた技術を工芸の分野に転用しその場を凌いだ事から生まれた。当時、一部の仏師はプライドを痛く傷ついたらしく、そう言った記録も残されている。

後藤運久作(近代)

 日本の木彫の歴史は、文化の中核を担っていた仏教美術を中心に展開してきたが、仏教の衰退と共に木彫も退潮し、加えて日本は近代化(西欧化)へと向かったため、装飾を否定するコンセプトを持つ近代合理主義の下、極めて装飾性の高い木彫界は加速度的にその「表現の場」を失ってしまった。

 前述したように、「鎌倉彫」とは後付けされたものなので、現在では漆芸の範疇に”所属”され一般に認知されている。このことは、木彫という表現が、もはや今の生活空間の中でその存在理由を無くしているため、敢えて漆芸界に割り込んだ形を取ったと思える。この事は鎌倉彫にとってとても不幸なことだ。現に、今もって鎌倉彫は漆芸界では継子扱いだ。この事態はある意味で当然で、漆芸を代表する蒔絵は、精緻で華麗、日本工芸界の最右翼を担って漆芸のイメージを決定付けている。そこから見える鎌倉彫は、リアリズムに裏打ちされた精緻な技術もなければ、徹底してストイックに追いつめた図案化もなく、とても漆芸と呼べるレベルではないと思われても仕方がないものだ。 
 本来鎌倉彫の良さは、ダイナミックで力強い点にあり、技巧を凝らした工芸品としての漆芸品とは一線を画していたはずだ。
 
 近代化の波の中で、コンテンポラリーな表現「場」を無くしてしまった鎌倉彫は、アマチュアのお稽古事の世界の中でかろうじてその居場所を確保している。残念ながら現在の鎌倉彫の業界が、「装飾としての鎌倉彫」、「装飾とは何か」、そして、「何故、装飾を失ったのか」をまったく理解していないため、今後この業界からコンテンポラリーな作品は出てこないだろうと思われる。昨年開催された「鎌倉彫ビエンナーレ」でも、大賞の受賞者はアマチュアで、僕の先輩や同期・後輩などの作品は、明らかに25年前より質が落ちていて惨憺たるものだった。

「蓮弁紋卓」 東 日出夫作

 木の国日本で生まれた木彫という美術を、どう今日的意味合いで表現していくかは、とても難しい。しかし、平面に凸凹をつけて、そこにイリュージョン(幻影)を感じさせる表現法は、平面を引っ掻いて出来た線刻描写と並んで最もプリミティヴで基本的なものだ。それ故、そう簡単に表現力を失っていくとは思えない。例えとして適当ではないかも知れないが、もうとっくに終わってしまった芸と思われていた腹話術を、「いっこく堂」 という芸人が、今の表現として復活再生させたように、彫木漆塗りとしての鎌倉彫も蘇生出来る可能性は充分ある。但し、彫木漆塗りを全面に出して従来の鎌倉彫のスタイルをただ踏襲したものでは、単に趣味の悪いキッチュな駄物で終わってしまう。
 キーワードは、先回このコラム欄で述べたように「時間軸の混在」だ。勿論、彫刻部分は過ぎ去った時間軸にあたり、そこに「今」という時間軸をどうぶつけていくかが全体の質を決定する。
もう少しコンテンポラリーな要素の多い表現の世界に入れば楽だったかな、と時々思ったりもするが、この趣味の悪い?「鎌倉彫」の蘇生は、低調な美術界にあって、案外面白い要素をもっているかも知れない。最近は、これも何かの縁と考えて新作に取り組んでいる。

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